タチアナ・ナフカ(Татьяна Навка)はウクライナのドニプロペトロウシク出身の元ロシアのアイスダンサー、フィギュアスケート選手。ロマン・コストマロフとのパートナーシップで2006年トリノオリンピック金メダルを獲得し、2004年・2005年の世界選手権優勝、3度の欧州選手権制覇を果たしました。引退後はアイスショー「氷上のスター」や「アイスエイジ」への出演、プロデュース活動に活躍。プーチン大統領報道官ドミトリー・ペスコフの妻として知られ、スポーツとエンターテイメントの分野で多大な影響力を発揮しています。
プロフィール
- タチアナ・ナフカ(Татьяна Навка)
- 生年月日:1975年4月13日(50歳)
- 出身地:モスクワ州ドニエプロペトロフスク
- 身長:170 cm
選手情報
- 競技種目:フィギュアスケート
- 代表国:ロシア
- パートナー:ロマン・コストマロフ
- 所属クラブ:SC Moskvitch
- 開始:1980年
- 引退:2006年
- ISUサイト:バイオグラフィ
生い立ち・教育
タチアナ・アレクサンドロヴナ・ナフカは、1975年4月13日、当時のソビエト連邦ウクライナSSRのドニプロペトロウシク(現在のウクライナ・ドニプロ)で生まれました。父親のアレクサンドルはエンジニア、母親のライサは経済学者として働いており、妹のナタリアが一人います。幼少期から活発で好奇心旺盛な少女だったタチアナは、5歳の頃にテレビでフィギュアスケートを観て魅了され、すぐにスケートを始めました。当初はシングルスケーターとして活動をスタートさせ、ドニプロペトロウシクの地元クラブでトレーニングを積みました。
彼女のコーチはタマラ・ヤルチェフスカヤとアレクサンドル・ロジンで、基礎的な技術を厳しく指導されました。しかし、12歳頃に急激な成長スパートを迎え、ジャンプの安定性が失われてしまいました。この頃、コーチからアイスダンスへの転向を勧められ、両親もこれを支持しました。アイスダンスは身体の成長に適した種目であり、タチアナの優雅な動きと表現力が活かされると判断されたのです。1988年、13歳の時に家族とともにモスクワ州に移住し、ロシアSFSRで新たな生活を始めました。この移住は、彼女のスケートキャリアを本格化させる重要な転機となりました。
教育面では、正式な学校教育を並行して受けながら、スケートのトレーニングに専念しました。モスクワに移住後、地元のスポーツ学校に入学し、アイスダンスの専門的なカリキュラムを学びました。ソビエト連邦のスポーツシステムは優秀な才能を早期に発掘・育成するもので、タチアナは国家レベルの支援を受けながら、日々を費やしました。英語や他の語学も少しずつ学び、国際大会への準備を整えました。彼女の生い立ちは、厳しいトレーニングと家族の支えが融合したものであり、これが後の成功の基盤を築きました。幼少期の経験は、彼女に忍耐強さと情熱を植え付け、プロフェッショナルな姿勢を養いました。
経歴
タチアナ・ナフカの競技経歴は、国際的なパートナーシップの変遷を反映した豊かなもので、ソ連、ベラルーシ、ロシアを代表して活躍しました。最初の本格的なパートナーはサムヴェル・ゲザリアンで、1987年から1995年までコンビを組みました。当初はソ連代表として出場し、ソ連崩壊後はベラルーシ代表に転じました。この時期の主な成果は以下の通りです。
- 1991年スケートアメリカ優勝
- 1991年ネーションズカップ優勝
- 1994年世界選手権5位
- 1995年世界選手権7位
ゲザリアンとのパートナーシップは、国際舞台での経験を積む上で貴重でした。1995年に解消後、1996年からニコライ・モロジョフと新たにペアを組み、引き続きベラルーシ代表として活動。1998年長野オリンピックでは16位、1998年世界選手権10位を記録しました。また、1997年カール・シェーファー記念で金メダルを獲得するなど、着実な成長を見せました。しかし、モロジョフとの相性に課題があり、1998-1999シーズン終了後に解消となりました。
ナフカのキャリアの頂点は、1998-1999シーズンからロマン・コストマロフとのパートナーシップです。ロシア代表としてナタリア・リニチュク、アレクサンドル・ジュリンらの指導を受け、急速に頭角を現しました。初年度の1998-1999シーズンでロシア選手権銅メダル、世界選手権12位を獲得。2000年に妊娠・出産のため1年間休養しましたが、2000-2001シーズンに復帰し、飛躍的な進化を遂げました。以降の主な栄誉は以下の通りです。
- 2003年グランプリファイナル優勝
- 2004年グランプリファイナル優勝、欧州選手権優勝、世界選手権優勝
- 2005年グランプリファイナル優勝、欧州選手権優勝、世界選手権優勝
- 2006年欧州選手権優勝、トリノオリンピック金メダル
2006年トリノオリンピックでは、完璧なフリー演技で金メダルを獲得し、30歳313日での優勝は女子フィギュアスケート史上最も年長のオリンピックチャンピオンとなりました。この勝利は、ナフカの芸術性と技術の融合を世界に示しました。オリンピック後、コストマロフとともに競技引退を宣言しましたが、プロのアイスショーには継続して出演。2014年ソチオリンピックの親善大使を務め、自身の経験を次世代に伝える役割も果たしました。ナフカの経歴は、逆境を乗り越える精神とパートナーシップの重要性を象徴しています。
私生活
タチアナ・ナフカの私生活は、スポーツキャリアと密接に結びつきながらも、家族中心の穏やかなものとして知られています。1994年までにベラルーシ国籍を取得し、2002年までにロシア国籍を取得しました。一時期はアメリカ・ニュージャージー州に在住していましたが、現在はモスクワを拠点としています。2000年5月、アメリカで長女サーシャを出産。この出産は、キャリアの休養期間となりましたが、母としての喜びを彼女に与えました。
私生活の大きな出来事の一つは、2000年にアイスダンサーのアレクサンドル・ジュリンと結婚したことです。ジュリンはナフカのコーチでもあり、二人はプロフェッショナルな関係からプライベートな絆を深めました。しかし、2010年7月に離婚。離婚後も良好な関係を保ち、娘のサーシャの養育を共同で進めています。ジュリンとの結婚生活は、ナフカに家族の大切さを教えてくれました。
2014年8月、ロシアで次女ナデジダ(ナディア)を出産。この妊娠中もアイスショー活動を続け、母性とプロフェッショナリズムを両立させました。2015年6月、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンの報道官ドミトリー・ペスコフと市民婚を挙げ、同年8月1日に盛大な結婚式を執り行いました。この結婚は、ナフカを公の場でさらに注目させるものとなりました。ペスコフとの生活は、娘たちを含めた大家族として安定しており、ナフカは家庭を第一に考えながら、社会活動にも積極的です。
2020年5月、COVID-19に感染し入院を余儀なくされましたが、無事回復。健康管理の重要性を再認識した出来事でした。私生活を通じて、ナフカは強い女性像を体現し、キャリアウーマンと母親のバランスを巧みに取っています。彼女の日常は、家族旅行や慈善活動に充てられ、フィギュアスケートの普及にも努めています。
出演作品
引退後のタチアナ・ナフカは、競技者からエンターテイナーへ転身し、数多くのアイスショーやテレビ番組に出演。彼女の優雅なスケーティングと表現力は、観客を魅了し続けています。主な出演作品は以下の通りです。
- 「Stars on Ice」(2008年):俳優マラト・バシャロフとのペアで優勝。ロシアのチャンネル・ワン主催のアイスショーで、セレブリティとのコラボレーションが話題に。
- 「Ice Age」(2009-2010年):フィンランド人俳優ヴィッレ・ハーパサーロ、俳優ヴァディム・コルガノフとのペアで準優勝。シリーズを通じて、ダンスの多様性を披露。
- 「Eurovision Dance Contest 2008」:プロダンサーアレクサンドル・リトビネンコとのペアで出場。ヨーロッパ規模のダンスコンテストで、ロシア代表として活躍。
- 「Ice and Fire」(プロデュース):ナフカ自身がプロデューサーとして手がけたアイスショー。2010年代に複数回公演し、歴史的なテーマをフィギュアスケートで表現。
- 「The Nutcracker on Ice」:クラシックバレエ「くるみ割り人形」をアイス上で再現。コストマロフらと共演し、家族向けの人気作。
- 「Carmen on Ice」:ビゼーのオペラ「カルメン」をモチーフにしたショー。情熱的なストーリーテリングで、ナフカの演技力が光る。
- 「Sleeping Beauty on Ice」:チャイコフスキーのバレエを基にした作品。プリンセス役で優美な演技を披露。
- 「Romeo and Juliet on Ice」:シェイクスピアの悲劇をアイスダンスで描き、感情豊かなパフォーマンス。
これらの作品以外にも、ナフカはプロデューサーとして「氷上の伝説」シリーズを企画。伝統的なロシア文学や歴史をテーマに、トップスケーターを集めて公演しました。テレビ出演では、インタビュー番組やドキュメンタリーで自身のキャリアを語り、後進の指導にも携わっています。2024年にはインド公演を行い、国際的な人気を拡大。出演作品を通じて、ナフカはフィギュアスケートの芸術性を高め、幅広い世代に届けています。
レビュー 作品の感想や女優への思い