マーガレット・サンガー(MARGARET SANGER;1879年9月14日 – 1966年9月6日)は、アメリカ合衆国の産児制限活動家、看護師、性教育者です。避妊と産児制限の概念を普及させ、女性の生殖権利を擁護しました。1916年に全米初の産児制限クリニックを開設し、逮捕を繰り返しながら運動を推進します。優生学を支持し、貧困層の出生制限を提唱しましたが、女性の自立を重視しました。
1922年に来日し、日本での産児制限運動に影響を与えます。国際家族計画連盟の初代会長を務め、経口避妊薬の開発に貢献しました。社会主義的思想を持ち、言論の自由を主張します。生涯で8回の逮捕を経験し、1966年に心不全で死去します。現代の家族計画運動の基礎を築きました。
プロフィール
- 名前:マーガレット・サンガー(MARGARET SANGER)
- 生年月日:1879年9月14日
- 出生地:アメリカ合衆国ニューヨーク州コーニング
- 没年月日:1966年9月6日
- 死没地:アメリカ合衆国アリゾナ州ツーソン
生い立ちと教育
マーガレット・サンガーは、1879年9月14日にアメリカ合衆国ニューヨーク州コーニングで、マーガレット・ルイーズ・ヒギンズとして生まれます。アイルランド系カトリック移民の両親のもとで、11人兄弟の6番目として育ちます。父親のマイケル・ヘネシー・ヒギンズは石工で、無神論者かつ社会主義者であり、自由思想を家族に植え付けます。一方、母親のアンネ・パーセル・ヒギンズは敬虔なカトリック信者で、18回の妊娠と11回の出産を経験し、結核と頸部癌により49歳で死去します。この母親の苦労が、サンガーの後の活動に大きな影響を与えます。
幼少期は貧しく、せわしない家庭環境で過ごしますが、姉たちの支援を受けて教育を受けます。1896年から1900年まで、ハドソン川沿いのクラバラック大学(寄宿制学校)に通い、医師を目指します。しかし、経済的な理由で断念し、1899年に母親の死後、ニューヨーク州ホワイト・プレインズの病院付属看護学校に入学します。1902年に看護師資格を取得し、同年にユダヤ人建築家のウィリアム・サンガーと結婚します。結婚後、結核に苦しみながらも3人の子供を出産しますが、三女は幼くして夭折します。
この時期の経験が、女性の健康と妊娠の負担についての意識を高めます。看護師として働く中で、移民女性たちの貧困と望まない妊娠の問題に直面します。これが産児制限運動への原動力となります。教育面では、正式な高等教育は受けていませんが、独学で社会主義文献やフェミニズム思想を学び、後の活動に活かします。1911年に自宅が火災で焼失した後、ニューヨーク市に移住し、訪問看護師としてスラム街で働きます。この経験が、避妊情報の必要性を強く認識させることになります。
活動歴
マーガレット・サンガーの活動は、1912年頃から本格化します。ニューヨークのイーストサイドで訪問看護師として働く中で、移民女性たちの頻繁な妊娠、流産、自らの中絶による死亡を目撃します。これをきっかけに、避妊情報の普及を決意します。当時のアメリカでは、コムストック法により避妊に関する情報の配布が違法でした。
1913年に夫と別居し、1914年に月刊誌「女性反逆者」を創刊します。この誌で避妊を「産児制限」と呼び、女性の権利を主張しますが、逮捕され、欧州に逃亡します。
イギリス滞在中に、ヘイヴロック・エリスやH.G.ウェルズと出会い、性教育や優生学の影響を受けます。1915年に帰国し、1916年にブルックリンで全米初の産児制限クリニックを開設します。クリニックは9日間で閉鎖され、サンガーは逮捕されますが、この事件が全国的な注目を集めます。1917年に「産児制限レビュー」を創刊し、1921年にアメリカ産児制限連盟(ABCL)を設立します。1922年に初来日し、石本静枝(後の加藤シヅエ)と協力して産児制限運動を推進します。以降、計7回来日し、日本での避妊普及に貢献します。1923年に臨床研究局(CRB)を開設し、避妊具の研究と配布を行います。
資金はジョン・D・ロックフェラーJr.から得ます。1936年に連邦裁判でコムストック法の一部を覆す判決を勝ち取り、医師による避妊具の輸入を合法化します。1939年にABCLをアメリカ産児制限連邦連盟に改組し、1942年にプランド・ペアレントフッド連盟に改称します。1952年に国際家族計画連盟(IPPF)を設立し、初代会長に就任します。
1950年代には、グレゴリー・ピンカスに資金を提供し、経口避妊薬(ピル)の開発を支援します。これにより、1960年にピルが承認されます。晩年はアフリカやアジアで講演し、診療所の設立を援助します。優生学を支持し、「不適者」の出生制限を提唱しましたが、強制的な方法ではなく自発的な避妊を強調します。社会主義者として労働運動にも参加し、言論の自由を主張します。生涯で8回の逮捕を経験しますが、これを運動の宣伝に利用します。1966年に死去するまで、女性の生殖権利を世界的に広めます。
私生活
マーガレット・サンガーの私生活は、活動と密接に結びついています。1902年にウィリアム・サンガーと結婚し、ストュアート、グラント、ペギーの3人の子供をもうけますが、ペギーは5歳で結核により夭折します。この喪失が、女性の健康問題への関心を深めます。結婚生活は1913年に破綻し、1921年に正式離婚します。ウィリアムは建築家で、芸術家肌でしたが、サンガーの活動を支えつつ、別居後は互いに独立します。
1914年の欧州逃亡中、H.G.ウェルズと恋愛関係になり、以降長く続きます。ウェルズはサンガーの思想に影響を与え、資金援助もします。また、アナーキストのロレンツォ・ポルテットとも関係を持ちます。1922年に石油実業家のジェームズ・ノア・H・スリーと再婚します。スリーは裕福で、サンガーの活動に多額の資金を提供しますが、1943年に死去します。再婚後もウェルズとの関係は続き、自由奔放な恋愛観を持っていました。無神論者で、母親の死がカトリック教会への不信を生みますが、晩年にはエピスコパル教会に所属します。
家族では、息子たちは医師になり、孫のアレクサンダー・C・サンガーは生殖健康活動家となります。1911年の自宅火災後、ニューヨークに移住し、ボヘミアン的な生活を送ります。1930年代後半からアリゾナ州ツーソンで冬を過ごし、1943年に定住します。健康問題として結核を患い、晩年は動脈硬化症で苦しみます。1953年に遺言で、死後東京で火葬し埋葬を希望しますが、実現せずニューヨーク州フィッシュキルに埋葬されます。私生活の経験が、避妊の必要性を痛感させる基盤となります。
メディア一覧
書籍
- 『全ての娘が知るべきこと』(What Every Girl Should Know、1916年)
- 『全ての母が知るべきこと』(What Every Mother Should Know、1917年)
- 『女性と新しき人種』(Woman and the New Race、1920年)
- 『文明の枢軸』(The Pivot of Civilization、1922年)
- 『ボンデージの母性』(Motherhood in Bondage、1928年)
- 『産児制限のための私の闘い』(My Fight for Birth Control、1931年)
- 『マーガレット・サンガー自伝』(Margaret Sanger:An Autobiography、1938年)
映画・ドラマ
- 『Portrait of a Rebel:The Remarkable Mrs. Sanger』(1980年、テレビ映画、ボニー・フランクリンがマーガレット・サンガー役)
- 『Choices of the Heart:The Margaret Sanger Story』(1995年、テレビ映画、デーナ・デラニーがマーガレット・サンガー役)




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