ハンナ・シグラ(Hanna Schygulla)は、ドイツの女優・シャンソン歌手。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督と強く結びつき、ドイツ新世代映画の代表的スター。1979年ベルリン映画祭最優秀女優賞(『マリア・ブラウンの結婚』)、1983年カンヌ国際映画祭最優秀女優賞(『ピエラの物語』)受賞。多才な演技で国際的に活躍。
プロフィール
- 名前:ハンナ・シグラ(Hanna Schygulla)
- 生年月日:1943年12月25日(81歳)
- 出生地:独国シレジア・ケーニヒスヒュッテ
- 出身地:西独ミュンヘン
- 国籍:独国
生い立ち・教育
ハンナ・シグラは1943年12月25日、現在のポーランド・ホジュフ(当時はドイツ領ケーニヒスヒュッテ、Königshütte)に生まれました。両親はドイツ人で、父親ヨーゼフ・シグラは木材商、母親アントニエ(旧姓ムジク)はポーランド/シレジア系に由来する名前を持ち、家族は複雑な文化的背景を背負っていました。第二次世界大戦中の1945年、シグラと母親は共産主義ポーランドによるドイツ系住民の追放によりミュンヘンに移住。父親はドイツ軍歩兵としてイタリアで米軍の捕虜となり、1948年まで帰還できませんでした。この困難な幼少期は、シグラの人生観や芸術への感受性に影響を与えたと考えられます。
高校卒業後、シグラはパリで1年間オペアとして過ごし、フランス語とフランス文化に親しみました。帰国後、1964年からミュンヘン大学でドイツ語とロマンス語学を学び、教師になることを目指しました。しかし、1966年から1967年にかけて、フリードル・レオンハルトのスタジオで演技のレッスンを受け、演技への情熱が芽生えます。この時期、彼女の人生を大きく変えたのが、後にドイツ映画界の巨匠となるライナー・ヴェルナー・ファスビンダーとの出会いでした。1967年9月、シグラはファスビンダーの「アクション・シアター」に参加し、舞台女優としての第一歩を踏み出しました。この出会いが、彼女のキャリアの基盤を築くことになります。
経歴
ハンナ・シグラのキャリアは、ファスビンダーとの密接なコラボレーションを中心に発展しました。1965年に彼の舞台作品に参加し始め、1968年にはジャン=マリー・ストローブ監督の『花婿、女優、そしてヒモ』で映画デビュー。1969年のファスビンダー監督『愛は死よりも冷酷』で初主演を飾り、以降12年間で彼の23作品に出演。この時期の彼女は、ドイツ新世代映画(Neuer Deutscher Film)の旗手として国際的に注目されました。特に、1979年の『マリア・ブラウンの結婚』での演技は、戦後ドイツの女性の苦悩と強さを体現し、ベルリン映画祭で最優秀女優賞(シルバーベア)を受賞。1980年のテレビミニシリーズ『ベルリン・アレクサンダー広場』や1981年の『リリー・マルレーン』でも、彼女の情感豊かな演技が評価されました。
しかし、ファスビンダーとの関係は常に順調だったわけではありません。1972年の『エフィ・ブリースト』の撮影中、役の解釈の違いや低賃金を巡る意見対立から、シグラはファスビンダーと衝突。彼の辛辣な言葉「君の顔を見るのも嫌だ」との一言で一時的に袂を分かち、1978年の『マリア・ブラウンの結婚』まで共演は途絶えました。この時期、シグラはヴィム・ヴェンダース監督の『まわり道』(1975年)などで活躍し、1975年にドイツ映画賞を受賞しています。
ファスビンダーの急死(1982年)後、シグラは国際的なキャリアを広げました。1983年のマルコ・フェレーリ監督『ピエラの物語』でカンヌ国際映画祭最優秀女優賞を受賞。ジャン=リュック・ゴダール(『パッション』、1982年)、アンドレイ・ワイダ(『ドイツの愛』、1983年)、ケネス・ブラナー(『デッド・アゲイン』、1991年)など、著名な監督との仕事を通じて、強くて官能的な女性像を演じ続けました。言語能力(ドイツ語、フランス語、英語)を活かし、国際共同制作の作品にも多数出演。2007年の『天国の彼方で』では、ナショナル・ソサエティ・オブ・フィルム・クリティクス賞を受賞し、銀髪の自然な美しさで新たな魅力を発揮しました。
1997年以降、シグラは映画から一時距離を置き、シャンソン歌手としての活動に注力。1999年の『ハンナ・シグラ、歌う』や、2007年の自伝的ワンマンミュージカル(ジャニス・ジョプリンやエディット・ピアフの曲を含む)で、音楽を通じた表現を追求しました。また、ベルリンのホロコースト記念碑に関する映画制作や、ファスビンダーとの仕事の回顧プロジェクトにも関与。2010年にはベルリン映画祭で名誉金熊賞、2011年にはプラハのフェビオフェストで生涯功労賞を受賞し、その影響力は今なお健在です。
私生活
ハンナ・シグラの私生活は、比較的プライベートに保たれており、結婚やパートナーに関する詳細な情報は公開されていません。1981年から2014年までパリに居住し、その後ベルリンに移りました。パリではフランス文化に深く浸り、フランス語の流暢さを活かしてシャンソン歌手としてのキャリアを築きました。パリでの生活は、彼女の芸術的感性や国際的な視野をさらに広げる一助となったようです。
1973年、シグラはミュンヘン近郊のペータースキルヒェンにあるアーティスト・コロニーで、ゴットリーベ・フォン・レンドルフ(伯爵夫人)と出会い、13年間隣人として過ごしました。この時期、彼女はファスビンダーをはじめとする多くの芸術家たちと交流し、刺激的な環境で創作活動に励みました。シグラはキャリアの絶頂期に両親の介護のため多くの映画出演を断り、家族への献身を示しました。この選択は、彼女の人間性と価値観を反映しています。
また、シグラは社会問題にも関心を持ち、ホロコースト記念碑に関するプロジェクトや、ファスビンダーの劇団の複雑な人間関係をテーマにした作品に取り組むなど、歴史や文化への深い洞察を表現に取り入れてきました。彼女の自然体な美しさ(整形手術を避けた銀髪の姿)と、強い女性像を体現する姿勢は、ファンや批評家から高く評価されています。
出演作品
以下はハンナ・シグラの代表的な出演作品の一部です。彼女のキャリアはファスビンダー作品を中心に、多国籍なプロジェクトにも広がっています。
ファスビンダー監督作品
- 愛は死よりも冷酷(1969年):映画デビュー作。ドイツ映画賞受賞。
- マリア・ブラウンの結婚(1979年):戦後ドイツの女性の生き様を描き、ベルリン映画祭最優秀女優賞受賞。
- ベルリン・アレクサンダー広場(1980年):テレビミニシリーズ。複雑な人間関係を演じる。
- リリー・マルレーン(1981年):歌手役で歌唱力を披露。シャンソン歌手への転身のきっかけ。
- エフィ・ブリースト(1974年)、ペトラ・フォン・カントの苦い涙(1972年)、神々のたそがれ(1970年)など、計23作品。
その他の監督作品
- ピエラの物語(1983年、監督:マルコ・フェレーリ):カンヌ国際映画祭最優秀女優賞受賞。
- 天国の彼方(2007年、監督:ファティ・アキン):トルコ・ドイツ合作。ナショナル・ソサエティ・オブ・フィルム・クリティクス賞受賞。
- ドイツの愛(1983年、監督:アンドレイ・ワイダ):ポーランドの歴史的背景を描く。
- デッド・アゲイン(1991年、監督:ケネス・ブラナー):ハリウッド進出作。
- パッション(1982年、監督:ジャン=リュック・ゴダール):実験的な作品での挑戦。
- フォルス・ムーブメント(1975年、監督:ヴィム・ヴェンダース):ドイツ映画賞受賞。
音楽・舞台
- ハンナ・シグラ、歌う(1999年):シャンソン歌手としての活動を記録。
- 2007年自伝的ワンマンミュージカル:ジャニス・ジョプリン、エディット・ピアフらの曲を披露。
- ヴァネッサ・ビークロフトのコンセプチュアル・アート(ドイツの城での公演):ファスビンダーの盟友イルム・ヘルマンらと共演。
総括
ハンナ・シグラは、ドイツ新世代映画の象徴として、ファスビンダーとの協働で世界的な名声を得ました。彼女の演技は、強さと官能性を兼ね備えた女性像を鮮やかに描き出し、言語能力を活かした国際的な活躍も際立っています。シャンソン歌手としての第二のキャリアや、社会的テーマへの関与は、彼女の多才さと深い人間性を示しています。80歳を超えた今も、シグラの自然体の美と芸術への情熱は、映画史に輝く遺産として残り続けます。




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