江戸川乱歩の小説『盲獣』は、1931年から1932年にかけて博文館の雑誌『朝日』に連載された中編作品。
視覚を失った盲目の男が触覚を異常発達させ、女性の肉体を対象とした猟奇的な犯罪を繰り返す物語を描いています。
乱歩の通俗長編の一つとして位置づけられ、エログロナンセンスの要素が強く、作者自身が失敗作とみなして一部を削除した経緯があります。探偵役が存在せず、犯人視点で進行する点が特徴的。
全体として、芸術と狂気、愛と死の境界を探求する倒錯した世界観が表現されています。
出版状況
江戸川乱歩の小説『盲獣』は、1931年から1932年にかけて博文館の雑誌『朝日』に連載されました。初の単行本は1932年に春陽堂から日本小説文庫として刊行されました。
作者自身が失敗作とみなして再版を許可しなかったため、約20年間絶版状態が続き、1952年に文芸図書出版社から再刊されました。その後、1963年に桃源社の江戸川乱歩全集第3巻に収録され、1996年に東京創元社の創元推理文庫として発行されました。
2016年にはバジリコから新版が発売され、現在も複数の出版社から入手可能です。
あらすじ
物語は、浅草オペラの花形女優である水木蘭子が、美術館で自身の姿をモデルとした彫刻に執着する盲目の男に出会うところから始まります。
盲人は蘭子の体を執拗に撫で回し、数日後、按摩師として楽屋に現れます。蘭子は不気味に感じて追い返しますが、翌日、馴染みの按摩師から断りの連絡があったと聞き、計画的な接近を悟ります。
公演後、恋人・小村昌一からの迎えの車と信じて乗り込んだ車で、麹町の洋館に連れ去られ、鏡の裏の隠し通路を通って真っ暗闇の地下室へ移されます。そこは壁一面に人間の体の一部を模したオブジェが飾られた異様な空間で、盲人が待ち構えています。
盲人は視覚がない代わりに触覚に喜びを見出し、特に女性の体に触れることを至上の快楽とし、蘭子の体が素晴らしいと評判を聞き、手に入れたいと語ります。蘭子は抵抗しますが監禁され、暗闇と触覚だけの世界で次第に盲人を愛し、没入します。
数ヶ月後、盲人は蘭子に飽き、殺害します。銀座に雪が降った日、雪で女の像を作り、溶けて崩れた時に片脚が発見され、死体が水木蘭子のものと判明しますが、犯人は捕まりません。
その後、盲人は按摩師として銭湯に潜り込み、「真珠夫人」と呼ばれる美しい未亡人を標的にし、言葉巧みに誘い出し、洋館に連れ去ります。真珠夫人も蘭子同様に盲人を愛しますが、飽きられて殺害され、バラバラ死体となって発見されます。
次に、寡婦クラブの女性たちに近づき、最も若く美しい大内麗子を狙います。麗子は盲人が犯人だと感づき、罠を仕掛けますが見抜かれて殺害されます。探偵役が存在せず、盲獣の犯行は続きます。
盲獣は東京での犯行が露見しそうになると逃亡し、途中で海女たちを殺害します。彫刻家・首藤春秋に接触し、自らを「盲目の彫刻家」と名乗り、触覚によってのみ理解される彫刻を展覧会に出品させます。この彫刻は視覚的に不気味で酷評されますが、盲目の人々が触れて感動します。
展覧会の最終日、彫刻の上で盲獣が自殺しているのが発見され、物語は終わります。このあらすじは、連続する猟奇事件と盲獣の心理を詳細に描き、救いのない結末が印象的です。
登場人物
- 盲獣(盲目の男):主人公で、生まれながらの全盲。視覚を失った代償として触覚を極限まで研ぎ澄まし、女性の体を触覚で鑑賞し、監禁・殺害を繰り返します。按摩師や盲目の彫刻家として活動し、最終的に自殺します。
- 水木蘭子:浅草オペラの花形女優。盲獣に連れ去られ監禁され、恐怖から愛に変わりますが、飽きられて殺害されます。
- 小村昌一:蘭子の恋人。迎えの車を装った盲獣の罠に蘭子が騙されます。
- 真珠夫人:美しい未亡人。「真珠夫人」と呼ばれ、盲獣の次の標的。連れ去られ愛しますが殺害され、バラバラ死体発見されます。
- 大内麗子:寡婦クラブの最も若く美しい女性。盲獣の正体に気づき罠を仕掛けますが、見抜かれて殺害されます。
- 彫刻家・里見雲山:蘭子の姿をモデルにした彫刻を作成。盲獣との出会いのきっかけとなります。
- 首藤春秋:彫刻家。盲獣が接触し、展覧会に出品させます。
- 女中:洋館で蘭子を導きます。
- 警備員:美術館で盲人を目撃します。
- 馴染みの按摩師:蘭子に盲人が接近したことを伝えます。
- 海女たち:逃亡途中で盲獣が殺害します。
- 寡婦クラブの女性たち:未亡人のコミュニティ。盲獣が近づき、麗子を狙うきっかけとなります。
執筆背景
江戸川乱歩は、1931年から翌年にかけて雑誌『朝日』で本作を連載しました。当時の乱歩は通俗長編を量産しており、本作もその一つ。
しかし、乱歩自身は本作を失敗作とみなしており、桃源社版「江戸川乱歩全集」刊行時に後半の一部を削除しています。猟奇的な描写が強く、作者が吐き気を催すほどの「ひどい変態もの」と述べた作品です。
探偵役不在の犯罪小説として、同時期の明智文吾シリーズとは異なり、特異な位置を占めています。エログロの要素は、当時の社会の裏側や人間の暗部を反映したもので、乱歩の想像力が現実世界にも波及したスキャンダラスな内容です。
解説
本作『盲獣』は、触覚に焦点を当て、美と醜、芸術と狂気、愛と死をテーマに描いています。
盲獣は視力を失った代償として触覚を極限まで研ぎ澄まし、女性の肌の滑らかさや体の曲線を至上の美・芸術とします。彼の地下室は人体オブジェで飾られ、視覚的にはグロテスクですが触覚の楽園です。
蘭子の心理は、恐怖から愛への倒錯した変化を示し、環境が価値観を変える恐ろしさを表現します。
舞台は昭和初期の東京(浅草オペラ、銀座、麹町の洋館)で、華やかさと裏の欲望のコントラストを描きます。猟奇描写(死体をバラバラにし、雪像やハムに偽装)は想像力を刺激し、盲獣の異常な価値観(死体を素材扱い)を表します。視覚中心の社会への挑戦として、触覚を真実の手段とします。探偵役不在で犯人が自由に行動し、不気味さと救いのなさを強調します。
寡婦クラブの描写は、当時の未亡人の立場と好奇心の危険性を示します。終盤の展覧会では、盲目の人々が触れて価値を認める異様な光景が、盲獣の美学が一部受け入れられる瞬間を描きます。
自殺は芸術の完成か、破滅か、謎を残します。
全体にエロティシズム、グロテスク、人間心理の深淵が融合し、乱歩の変態度が炸裂する貴重作です。スプラッター・ホラー的な要素が半世紀前に描かれた点で先進的ですが、作者自身が削除を望んだほど過激です。
映画版との違い
1969年の増村保造監督による映画版は、原作に比して翻案に近く、中盤以降はほぼ独自の展開です。原作では盲獣が複数の女性を連続殺害し、探偵役不在で犯行が続くのに対し、映画は登場人物を三人(モデル・アキ、盲目の彫刻家・道夫、その母)に絞り、密室劇として心理的な倒錯愛を描きます。
原作の水木蘭子に相当するアキは、恐怖から狂気へ移行しますが、映画では母の嫉妬が絡み、互いの体を切り刻む極限の行為に至ります。原作の猟奇描写は連続犯罪中心ですが、映画は視覚的なホラーと芸術性を強調し、巨大女体像のセットで乱歩世界を再現します。
原作の結末は盲獣の自殺ですが、映画は芸術の究極として二人が犠牲になる独自の終わり方です。この違いにより、映画は原作の暗く静かな心理描写とは対照的に、より視覚的でカルト的な作品となっています。


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