ここに紹介する動画は、YouTube上で公開されている「The Myth of Realism in Film!」(映画におけるリアリズムの神話!)というタイトルのものです。この動画は、2025年8月12日に「The Dude Who Made This Video」によってアップロードされており、映画におけるリアリズム(現実主義)が存在しないというテーマを扱っています。
動画の概要と説明
動画の説明文は以下の通りです。
Talking about how I believe realism in film doesn’t exist, would love to hear people’s opinions on this.(映画におけるリアリズムは存在しないという私の考えについて、皆さんの意見をぜひ聞かせてほしい。)https://youtu.be/EesLgs1DjBo
この説明では、話し手が映画のリアリズムを否定する自身の信念を述べ、視聴者からの意見を求めています。また、議論の参考として、映画『ANORA アノーラ』や『GERRY ジェリー』などの作品を挙げ、リアリズムの概念を深く掘り下げるための触媒として位置づけています。
動画の全体的な内容は、話し手が大学での映画理論の講義(リアリズムと映画に関するモジュール)を基に、映画が本物の現実を捉えることが不可能である理由を論理的に展開するものです。話し手は、映画理論家(例:ジークフリート・クラカウアー、ローラ・マルヴィ、アンドレ・バザン、ロジャー・イーバート)の引用や具体的な映画例を交えながら、映画の本質的な制作プロセスがリアリズムを阻害することを指摘します。
以下では、動画の主な主張を構造的にまとめ、なぜ映画にリアリズムが存在しないと結論づけているのかを詳しく説明します。説明は動画の論点を忠実に再現しつつ、論理の流れを明確に整理しています。
カメラの存在とその「不可視性」
動画の冒頭で、話し手は映画のリアリズムを定義する理論家ジークフリート・クラカウアーの『映画の理論 物理的現実の救済』を引用します。クラカウアーによると、映画の美学は「演出されていない」(unstaged)「偶然の」(fortuitous)「日常の」(everyday)現実を捉えることにあります。しかし、映画制作には脚本、監督、セット、衣装、俳優、そしてカメラが不可欠です。特にカメラは、観客にその存在を忘れさせるよう設計されており、これがリアリズムの幻想を生み出します。
ローラ・マルヴィの『視覚的快楽と物語映画』(Visual Pleasure and Narrative Cinema)では、カメラの存在を目立たせないことで観客の没入を維持すると指摘されています。一方、Richard Maltbyはカメラを「unobtrusive(目立たない)媒介者」と表現します。これにより、俳優の演技が本物らしく見えますが、実際にはカメラの存在が行動を変容させます。
例として、映画『Ed TV』(1999年)が挙げられます。主人公Edが常時監視される設定で、カメラの存在を知ると自然な行動が演技化される様子が描かれます。隠しカメラを使った場合でも、セットアップ自体が現実を歪曲するため、真のリアリズムは達成できません。
この点から、話し手はカメラの「不可視性」が映画の基盤である一方で、それが本物の現実から離れる原因だと主張します。
日常の省略と編集の役割
映画は現実の退屈な側面を意図的に排除します。これがリアリズムの不在を示すもう一つの理由です。
日常の行為、例えばトイレに行くことや移動時間は、映画でほとんど描かれません。話し手は、これらが現実生活では頻繁に起こるのに、映画では省略される点を強調します。例外として、『パルプ・フィクション』ではキャラクターのトイレシーンがドラマチックに使われますが、これは効果を狙った演出です。また、『ボルベール』ではペネロペ・クルスのシーンが挙げられます。
移動の例として、『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』では長い旅路を短いカットで表現します。一方、ガス・ヴァン・サントの『GERRY ジェリー』では長回しの歩行シーンが登場しますが、これは現実の退屈さを反映しつつ、映画として耐え難いほど単調です。
アンドレ・バザンの『映画とは何か』を引用し、リアリズム芸術は現実と一体化した美学を求めるが、編集(不要な部分のカット)がこれを不可能にすると述べます。現実生活は冗長で面白くないため、映画はそれを圧縮し、結果として非現実的になります。
セックスの描写とシミュレーション
セックスは現実の重要な側面ですが、映画では本物ではなくシミュレートされます。これがリアリズムの限界を露呈します。
一般的な映画(例:映画『オッペンハイマー』のフローレンス・ピューとキリアン・マーフィーの場面や、『哀れなるものたち』のエマ・ストーンとマーク・ラファロの場面)では、俳優が実際の行為をせず、演技します。
例外として、非ポルノ映画の『ナイン・ソングス』や『愛のコリーダ』では本物のセックスが描かれ、これを「究極のリアリズム」と評します。しかし、これらも脚本化されているため、完全な現実とは異なります。
隠しカメラと現実の融合
一部の映画が隠しカメラを使って本物の反応を捉える試みもありますが、これでもリアリズムは不完全です。
ショーン・ベイカーの『ANORA アノーラ』では、キャラクターがカフェで本物の客に写真を見せるシーンで、客は撮影を知らず自然に反応します。これにより、映画の現実と実際の現実が混在します。『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』ではスカーレット・ヨハンソンが本物の通行人と対話します。『Julien Donkey-Boy』ではバス内の本物の乗客がキャラクターの行動に反応します。
これらはドキュメンタリー風ですが、全体の脚本が介入するため、真のリアリズムとは言えません。
モキュメンタリーと第四の壁の破壊
モキュメンタリー(擬似ドキュメンタリー)は、制作過程を露呈することでリアリズムを強調しますが、逆説的にその不在を示します。
- Jud B. Bayerの理論では、カメラクルーを画面に映すことで構築された現実を意識させ、それが本物らしさを生むとされます。『ありふれた事件』ではシリアルキラーを追うクルーが犯罪に加担し、観客に現実感を与えます。一方、『第9地区』は初期のモキュメンタリー・スタイルを放棄し、リアリズムを損ないます。
- 第四の壁の破壊(観客に直接話しかける)は幻想を崩します。例えば『大逆転』『フェリスはある朝突然に』『ファニーゲーム』。特にジャファール・パナヒの『The Mirror』では、途中から女優が役を降り、本物の行動を追うドキュメンタリー風に変わりますが、監督の計画性が残ります。
ハイパーリアリティとリアリズムの可能性
映画は「ハイパーリアリティ」(超現実)で、現実を再現するが本物ではないと結論づけます。
ロジャー・イーバートの言葉を引用し、映画は他者の視点を提供する「共感の機械」ですが、現実の予測不能性を欠きます。例:『カタクリ家の幸福』の absurd な展開。
真のリアリズムの可能性として、アンディ・ウォーホルの『エンパイア』(1965年、エンパイア・ステート・ビルの8時間無編集映像)を挙げますが、モノクロのため完全ではないとします。YouTubeの長時間無編集動画も似ていますが、映画の要素(撮影、選択)が介入します。
結論:リアリズムの不在とその含意
話し手は、映画のすべての要素(カメラ、編集、演出)が現実を操作するため、リアリズムは存在しないと断言します。クラカウアーの理想的な「演出されていない」(unstaged)現実を達成できないからです。批評家が「非現実的」と言う際、この点を再考すべきだと提言します。この議論は、映画の魅力が現実の模倣ではなく、独自の表現にあることを示唆しています。
この説明がご質問の参考になれば幸いです。動画の視聴をおすすめしますが、追加の詳細が必要でしたらお知らせください。
また、映画のリアリズムについては次の記事をご覧ください。「なむ語る」としては、次のように考えています。リアリズムとは、19世紀ロマン主義からの離脱を映画で行なおうとしたさまざま手法ですが、リアリズムが現実を大きく捉えすぎたために、ロマン主義の一抹を反映させてしまっています。映画は現実を再現しますが、ロマン主義を入れてしまっているため、リアル(現実)ではありません。

映画は表現作品として楽しむものです。



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