バラエティ

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米国の雑誌「バラエティ」を述べています。
アメリカの老舗エンターテインメント情報ウィークリー。業界ご用達のマガジンで、映画を中心に業界情報、作品評、興行成績を掲載。米国中心の構成のなか、International Box Officeランキングも収録。

『バラエティ』はペンスキー・メディア・コーポレーションが所有する米国の業界誌。1905年にサイム・シルヴァーマンによってニューヨークで演劇とボードビルの週刊紙として創刊されました。1933年には、ロサンゼルスを拠点に映画業界をカバーする日刊紙も創刊されました。『バラエティ』のウェブサイトは、エンターテイメント・ニュース、レビュー、興行成績、クレジット・データベース、製作チャート、映画カレンダーを掲載しています。

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バラエティ

  • 編集長:ラミン・セトーデ(共同編集者)、シンシア・リトルトン(共同編集者)
  • 分野:業界、エンターテインメント
  • 発行頻度:週刊
  • 出版社:ミシェル・ソブリノ=スターンズ(CEO兼グループパブリッシャー)、ディア・ローレンス(COO/CMO)
  • 有料発行部数:85,300部
  • 創設者:サイム・シルバーマン
  • 創刊号:1905年12月16日(ニューヨーク/週刊誌)、1933年(ロサンゼルス/日刊誌)、1998年(ニューヨークにて/日刊誌)
  • 会社名:ペンスキー・メディア・コーポレーション
  • 国名:米国
  • 本拠地:米国カリフォルニア州ロサンゼルス
  • 使用言語:英語
  • ウェブサイト:variety.com
  • SNSサイト:YouTube
  • ISSN:0042-2738
  • OCLC:60626328
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歴史

設立

『バラエティ』は、1905年12月16日、サイム・シルヴァーマンによって、演劇とボードビルを扱う週刊定期刊行物として創刊されました。創刊以来、ニューヨークに本社を置いています。シルバーマンは1905年、モーニング・テレグラフ紙で50ドルの広告を出した芝居をパンクさせて解雇された経緯があります。その後、彼は広告に左右されない独自の出版物を創刊することを決意し、義父から1,500ドルの融資を受け、出版社兼編集者として『バラエティ』を創刊したのです。モーニング・テレグラフ紙のほか、創刊当時の主な競合はニューヨーク・クリッパー紙とニューヨーク・ドラマティック・ミラー紙などがありました。

現在のデザインとよく似たオリジナルのロゴは、背景画家のエドガー・M・ミラーがスケッチしたもの。創刊号には、シルバーマンの息子で、7歳という世界最年少の批評家として知られたスキギーことシドネの批評が掲載されました。表紙には当時の編集スタッフの写真が掲載されています。アルフレッド・グリーソン、エペス・W・サージェント(チコットまたはチック)、ジョシュア・ロウ、シルバーマン。

20世紀

1922年、シルバーマンはビルボードのオーナーであるウィリアム・ドナルドソンとの争いの後、ビルボードから広告収入を引き出そうと、1853年から舞台やその他のエンターテイメントの報道をしていたニューヨーク・クリッパー紙を買収。シルバーマンは2年後、10万ドルを費やしてこの雑誌を解散させ、特集の一部を『バラエティ』に統合しました。同1924年、彼は『タイムズスクエア・デイリー』を創刊したものの「世界最悪の日刊」と呼ばれ、すぐに廃刊。その間、『バラエティ』のスタッフは3紙すべてで働いていました。

1930年に『ハリウッド・レポーター』が創刊されると、シルバーマンは1933年、アーサー・アンガーを編集長にハリウッドを拠点とする『デイリー・バラエティ』を創刊。これはハリウッドで毎週金曜日に発行されていた『Variety Bulletin』に代わり、『Weekly』の折り返し4ページとして発行されました。『デイリー・バラエティ』は当初、日曜日をのぞく毎日発行されましたが、おもに月曜日から金曜日に発行されました。デイリーとウィークリーは当初、事実上独立した新聞として運営され、デイリーがおもにハリウッドのニュース、ウィークリーが米国内外の報道に集中していました。

シルバーマンは1933年、後任として『ウィークリー・バラエティ』の編集長をアベル・グリーンに譲りました。シルバーマンはその年の暮れ、『デイリー・バラエティ』創刊直後に亡くなるまで、出版社にとどまりました。シルバーマンの息子シドが後を継いで両誌の発行人となりましたが、1936年に結核を患ったため、日常的な役割は果たせなくなりました。編集長のグリーンと財務担当兼最高財務責任者のハロルド・エリックスが、彼の病気の間、新聞を運営。1950年にシドが亡くなると、一人息子のシド・シルバーマンが当時のバラエティ社の唯一の相続人となりました。若きシドの法定後見人であり、オフィス・ボーイとしてバラエティ社に入社したエリックスが社長に就任しました。

アンガーは1950年に亡くなるま『デイリー・バラエティ』の編集者であり続けた。 彼の後をジョー・シェーンフェルドが継ぎました。

1953年、アーミー・アーチャードは『デイリーバラエティ』2面の「ジャスト・フォー・バラエティ」欄を担当し、瞬く間にハリウッドの人気者となります。アーチャードは数え切れないほどの特ダネを掲載し、映画の撮影現場からのリポート、保留中の契約の発表、スター関連の入院、結婚、出産のニュースを伝えました。 このコラムは2005年9月1日まで52年間毎日掲載されました。

エリックスは1956年まで『バラエティ』の監督を続けました。それ以降は、シド・シルバーマンがニューヨークの『ウィークリー・バラエティ』とハリウッドの『デイリー・バラエティ』両方の発行人として会社を管理。

1959年、ニューヨーク・タイムズ紙のハリウッド支局長だったトーマス・M・プライヤーが『デイリー・バラエティ』の編集長に就任。プライヤーの下で、同誌は8ページから32ページへ拡大し、発行部数も8,000部から22,000部に増加。

グリーンは1973年に亡くなるまで『バラエティ』の編集者であり続け、その後をシドが引き継ぎました。

1987年、『バラエティ』は6400万ドルでCahners Publishingに売却されました。1987年12月、シドは『バラエティ』の編集長職をロジャー・ワトキンスに譲りました。29年間『デイリー・バラエティ』の編集長を務めたトム・プライヤーは、1988年6月、息子のピートに引き継ぎました。

1988年12月7日、ワトキンスは4色刷りへの移行を提案し、監督。創刊と同時に、新装『バラエティ』のサイズは1インチ短くなり、前面は洗礼された色調になりました。また、1920年にサイムが旧形式での使用を断念して以来初めて、サイム、アベル、シドの写真が掲載されました。

1989年から20年間、『バラエティ』の編集長はピーター・バートで、もともとは週刊ニューヨーク版のみ、ハリウッド版『デイリー』はマイケル・シルバーマン(シドの息子)が担当していました。バートは以前、パラマウント・ピクチャーズとニューヨーク・タイムズに勤務していました。

シドは1990年まで発行人を務め、『ウィークリー・バラエティ』ではジェラルド・A・バーンが、『デイリー・バラエティ』ではサイム・シルヴァーマンのひ孫であるマイケル・シルヴァーマンが後継となり、シドは両誌の会長に就任。

21世紀

2009年4月、バートは副社長兼編集ディレクターに異動。2009年半ばから2013年まで、ティモシー・M・グレイが編集長を務めました。

ペンスキー・メディア・コーポレーションによる買収

2012年10月、定期刊行物の所有者であるリード・ビジネス・インフォメーション(旧社名リード・エルゼビア、米国ではカーナーズ社の親会社)は、『バラエティ』誌をペンスキー・メディア・コーポレーション(PMC)に売却。PMCはデッドライン・ハリウッドのオーナーであり、2007〜2008年の全米脚本家組合ストライキ以来、オンラインショービズ・ニュースにおいてバラエティ最大の競合とみなされてきました。2012年10月、PMCの会長兼CEOであるジェイ・ペンスキーは、タウンホールで、ウェブサイトのペイウォールを撤廃し、紙媒体の出版物を残し、バラエティのデジタル・プラットフォームにさらに投資すると発表しました。

2013年3月、オーナーのペンスキーは3人の共同編集者を任命し、映画担当編集者にクラウディア・エラー、テレビ担当編集者にシンシア・リトルトン、デジタル担当編集者にアンドリュー・ウォレンスタインが就任。また、「Variety Ankles Daily Pub Hubbub」という見出しで2013年3月19日に発行された印刷版を最後に『デイリー・バラエティ』の印刷を中止することが決定されました。

2014年6月、バラエティは自称「Real Estalker」のMark Davidの指揮の下、ハイエンドの不動産速報ニュースサイト「Dirt」を立ち上げ、後に2019年に独立したサイトへ拡大。2014年10月、エラーとウォレンスタインが共同編集長に昇格し、リトルトンは引き続き業界のTV報道を監督。 2014年6月、ペンスキー・メディア・コーポレーションはロイターと契約を結び、バラエティとVariety Latino-Powered by Univisionのニュースをシンジケートし、国際通信社の世界中の読者に主要なエンターテインメント・ニュースを配信します。この配信は、コラム、ニュース記事、画像、動画、データに特化した商品の形で行なわれます。2015年7月、バラエティ・スタジオはテレビアカデミーによるロサンゼルス地区エミー賞の最優秀エンターテインメント番組部門を受賞。「アクターズ・オン・アクターズ」シリーズは、高名な俳優たちとの会話を通してハリウッド映画やテレビ番組の内側を視聴者に紹介する1時間のスペシャル番組。テレビアカデミーから年間最高のエンターテインメント番組として評価され、2016年には2度目のロサンゼルス地区エミー賞を受賞しました。

2019年6月、バラエティはゲーム部門を閉鎖。

雑誌『バラエティ』の広告収入の大部分は、アカデミー賞前の映画賞シーズンに入ってきます。この「アワード・シーズン」には、カラフルな全面広告「For Your Consideration」が大量に掲載され、『バラエティ』は通常の2倍、3倍のページ数に膨れ上がります。これらの広告は、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞、各種ギルド賞など、年明け早々に授与される数多くの賞の投票を行なうハリウッド映画関係者に向けて、各スタジオが仕掛けるものです。

コンテンツ

『バラエティ』誌のおもなコンテンツは映画に関するものです。

映画批評

1907年1月19日、『バラエティ』は史上初の映画批評といわれるものを発表。それはシメ・シルヴァーマンが書いた2本の批評で、Patheの喜劇短編『An Exciting Honeymoon』とエジソン・スタジオの西部劇短編『The Life of a Cowboy』に関するもの。『バラエティ』は1911年3月から1913年1月までの間、映画の批評を打ち切りました。ジョージ・クライネと思われる映画プロデューサーから、映画の批評をするのは無駄なスペースだと説得され、また他のプロデューサーからは、好意的な批評が特定の映画への強い需要をもたらし、他の映画を排除していると指摘されたからです。このギャップにもかかわらず、『バラエティ』は現存する映画批評のなかで最も長い間途切れることのない情報源となってきました。

1930年、『バラエティ』はまた、その週に批評された映画のミニチュア批評の要約を掲載しはじめ、1951年に編集者は批評の上にカプセルを配置することを決定しました。

映画批評家

批評を書くことは、『バラエティ』誌のスタッフにとって副業であり、スタッフたちのほとんどは映画・演劇の批評家ではなく、記者として雇われていました。同誌の批評家の多くは、フルネームではなく、4文字のペンネーム(”sigs”)で自分の作品を紹介していました(この習慣は1991年8月に廃止)。

批評の転載

『バラエティ』は、10,000本以上の映画批評が書籍化されている3つの英字定期刊行物のうちの1つです。これらは24巻のバラエティ・フィルム・レビュー(1907年〜1996年)に収録されています。他の2つの定期刊行物は、ニューヨーク・タイムズ(1913年〜2000年)とハリソンズ・レポート(1919年〜1962年)。

1992年には、デレク・エリーが編集した5,000の批評を要約した「バラエティ・ムービー・ガイド」を出版。最終版は2001年に発行され、8,500の批評が収録されています。Variety.comでは、1998年以前の映画批評の多くは、オリジナルの批評が掲載されていないかぎり掲載されています。

訃報

エンターテイメント関連の死亡記事約10万件(1905年~1986年)の全文が、アルファベット順索引を含む11巻セット『Variety Obituaries』として再版されています。1987年から1994年まで、年2回、計4冊が出版されました。

毎年1月に発行される記念号には、その年に亡くなった芸能人の訃報が掲載されることが多いです。

この記事を書いた人
なむ

洋画が好きです(字幕派)。だいたいU-NEXTかNetflixで観ています(^^) 詳細は名前をクリックしてください。

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