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ラウラ・アントネッリ

ラウラ・アントネッリ(Laura Antonelli)はイタリアの映画女優。1964年から1991年にかけて45本の映画に出演。サルヴァトーレ・サンペリ監督のカルト映画『青い体験』での官能的な演技で知られ、1970年代のヨーロッパでセックス・シンボルとして人気を博した。軽いエロティック・コメディ、ドラマ、脱力系映画からアルスハウス映画まで、さまざまなジャンルの映画で成功を収めた。

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プロフィール

  • 名前:ラウラ・アントネッリ(Laura Antonelli)
  • 出生名:ラウラ・アントナーズ
  • 生年月日:1941年11月28日
  • 出身地:イタリア王国(現クロアチア共和国)プーラ
  • 没年月日:2015年6月22日(享年73歳)
  • 死没地:イタリア共和国ローマ
  • 身長:166cm
  • 職業:女優・モデル
  • 活動期間:1964年~1991年
  • 配偶者:エンリコ・ピアチェンティーニ
  • パートナー:ジャン=ポール・ベルモンド(1972年~1980年)
  • 子供:1人

生い立ちと教育

ラウラ・アントネッリは、1941年11月28日、当時イタリア領であったクロアチアのプーラ(旧ポーラ)で、ラウラ・アントナーズとして生まれました。第二次世界大戦後、彼女の家族は当時のユーゴスラビアを逃れ、イタリアの難民キャンプを経てナポリに定住しました。父親は病院管理者として働き、家族は新たな生活を築きました。

幼少期、彼女は数学に強い関心を示し、将来は数学の道に進むことを考えていましたが、10代になると体操に才能を発揮。特にリズミカルジムナスティックに優れ、これは一種のダンス要素を含む競技でした。彼女自身が後に語ったところによると、両親は彼女を「醜く、不器用で重要でない」と感じ、体育の授業を通じて優雅さを身につけてほしいと願っていたといいます。この体操の経験が、後の女優としての身体表現や優雅な演技に影響を与えました。

高校を卒業後にローマへ移住し、中学校の体育教師に。芸能界の人々と知り合う傍ら、その後数学教師となりました。TV番組『カロセロ』(1957年)への出演をきっかけに映画界に入り、完璧な肉体を披露する機会に恵まれていきます。

経歴

ラウラ・アントネッリの初期の仕事に、コカ・コーラのイタリア語の広告があります。1965年に『16 Year Olds』で長編映画に初出演。米国デビューは1966年の『Dr. Goldfoot and the Girl Bombs』。この映画のプロデューサー、サミュエル・Z・アーコフは、作品の失敗の原因を、ラウラが服を脱ぐのを拒んだからだとしました。アーコフは、彼女がもともと脱ぐ気でいたのに監督として派遣されたアルコフの甥が彼女に恋心を抱いてしまい、思いとどまらせたのだと主張しました。

そして1973年に公開された『青い体験』でブレイクし、1970年代ヨーロッパを代表するセックス・シンボルとなりました。それからは『レディドール/青い欲望』(1974年)など、セックス茶番劇(コメディ)に多数出演。

他方、ルキノ・ヴィスコンティの遺作となった『イノセント』(1976年)など、シリアスな作品にも出演。1977年のロマンス映画『ラウラ・アントネッリ 悦楽の貴婦人』では、性の目覚めを体験する抑圧された妻を演じました。その後、『パッション・ダモーレ』(1981年)に出演。

1980年代に入ると、彼女はイタリアのテレビ番組にも積極的に出演。1986年以降、テレビでの活動が増えましたが、1991年の『青い体験 2000』を最後に映画界から引退しました。この時期、彼女のキャリアは私生活でのトラブルによっても影響を受けました。1991年に自宅でコカインが押収され、麻薬所持・密売の容疑で3年半の禁錮刑を言い渡されますが、彼女は密売を否定。2000年に抗告が認められ、判決は取り消されました。また、『青い体験 2000』の撮影中に受けたコラーゲン注入手術が失敗に終わり、彼女はプロデューサーらを相手に損害賠償訴訟を起こしましたが、2003年に敗訴。さらに、長引く裁判による損害を理由に国を相手取った訴訟を起こし、2006年に10万8千ユーロの賠償金が支払われました。これらの出来事が、彼女のキャリアの終焉と引退に繋がりました。

ラウラは、1974年に『青い体験』でイタリア映画記者協会が選定する「ナストロ・ダルジェント賞」で主演女優賞を獲得しました。

私生活

ラウラ・アントネッリの私生活は、華やかなキャリアとは対照的に波乱に満ちていました。彼女は出版社のエンリコ・ピアチェンティーニと結婚しましたが、後に離婚。1972年から1980年まで、フランスの名優ジャン=ポール・ベルモンドと長期にわたる交際を続けました。この関係は当時大きな注目を集め、ベルモンドは彼女の死後、「とても魅力的で愛すべきパートナーだった」とコメントしています。彼女には1人の子供がいたとされていますが、詳細はあまり公にされていません。

1991年の麻薬関連の逮捕や、その後の裁判と手術の失敗は、彼女の精神とキャリアに大きな打撃を与えました。晩年はローマ近郊のラディスポリで静かに暮らし、2015年6月22日、心臓発作により73歳で亡くなりました。遺体は自宅を訪れた清掃作業員によって発見され、ベルモンドを含む多くの関係者やファンがその死を悼みました。

出演作品

映画

  • 16 Year Olds(1965年) – 長編映画デビュー作
  • Dr. Goldfoot and the Girl Bombs(1966年) – 米国デビュー作
  • 毛皮のヴィーナス(1969年) – 初の主演作
  • 裸のチェロ(1971年) – セクシーな役柄で注目
  • 青い体験(1973年) – ナストロ・ダルジェント賞受賞
  • レディドール/青い欲望(1974年) – エロティック・コメディ
  • J-P・ベルモンドの交換結婚(1975年) – 恋人と共演
  • イノセント(1976年) – ルキノ・ヴィスコンティ監督の遺作
  • ラウラ・アントネッリ 悦楽の貴婦人(1977年) – ロマンス映画
  • 青い体験 2000(1991年) – 最後の映画出演
  • セッソ・マット(2005年) – 日本公開時の記録
公開年 題名 配役
1991 青い体験2000 アンジェラ
1990 The Miser フロシナ
1989 Disperatamente Giulia カルメン・ミルコヴィ
1987 ハイレッグ・アバンチュール/セクシーギャル灼熱の情事 ノーチェ・ボヴェ
1987 Roba da ricchi マピ・ペトルッツェッリ
1986 薔薇の貴婦人 アンジェラ
1986 Grandi magazzini エレナ・アンゼロッティ
1985 Slices of Life モニカ・ベッリ
1985 スキャンダル 愛の罠 マリー・コルベール
1982 Porca vacca マリアナ
1982 続・セッソ・マット カルラ・デ・ドミニシス
/スーパーの客/プリンセス
1982 Viuuulentemente mia アンナ・タッソッティ
1981 ラブ&パッション 情事の虜たち クララ
1981 Il turno ステリーナ
1981 禁断のインモラル ローザ・ディ・マッジョ
1980 I’m Getting a Yacht ロベルタ
1979 ピンクのルージュ 妻/ビジネスウーマン
1979 Il malato immaginario トニーナ
1979 Inside Laura Antonelli (不明)
1977 ラウラ・アントネッリ 悦楽の貴婦人 アントニア・デ・アンジェリス
1977 Tre scimmie d’oro アントニア・デ・アンジェリス
1977 Black Journal サンドラ
1976 イノセント ジュリアナ・ヘルミル
1975 悦楽の闇 マノエラ・ロデリギ
1974 続・青い体験 ラウラ
1974 シモーナ シモーナ
1974 レディドール/青い欲望 マケダのユージニア
1973 セッソ・マット マダム・ジュリエット
1973 青い体験 アンジェラ
1972 ザ・エロチシスト シスター・デリカータ
1972 ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚 マルティーヌ・デュポン
1971 コニャックの男 ポリーヌ・ド・ゲランド
1971 Without Apparent Motive ジュリエット・ヴォードルイユ
1971 裸のチェロ コンスタンス・ヴィヴァルディ
1970 スレッジ リア
1970 愛と欲望のバリ ダリア
1970 Gradiva グラディーバ
1969 夜の刑事 フランカ
1969 The Archangel エレナ
1969 毛皮のヴィーナス ワンダ・フォン・デュナジュー
1968 La Rivoluzione sessuale リリアーナ
1967 すみません、賛成ですか反対ですか? ピエラ・コンフォルティ
1966 Dr. Goldfoot and the Girl Bombs ロザンナ
1965 16 Year Olds (不明)
1964 The Magnificent Cuckold (不明)

TV

  • 1989年:Disperatamente Giulia(カルメン・ミルコビッチ役)
  • 1988年:Gli indifferenti(リサ役)

まとめ

ラウラ・アントネッリの出演作品は、エロティック・コメディからシリアスなドラマまで幅広く、1970年代のイタリア映画界における彼女の影響力を象徴しています。特に『青い体験』は、彼女の名を世界に知らしめた代表作であり、官能的な演技とコメディの軽快さが融合した作品として今なお多くのファンに愛されています。

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