ジュリア・ロバーツ(Julia Roberts)はアメリカ人女優。ロマンティック・コメディやドラマ、ブロックバスターで知られ、アカデミー賞を受賞し、「アメリカのスイートハート」として世界的な名声を得ました。輝く笑顔と多才な演技でハリウッドのアイコン。
プロフィール
- 名前:ジュリア・ロバーツ(Julia Roberts)
- 本名:ジュリア・フィオナ・ロバーツ(Julia Fiona Roberts)
- 生年月日:1967年10月28日(57歳)
- 出生地:アメリカ合衆国ジョージア州コブ郡 スマーナ
- 身長:173cm
- 配偶者:ライル・ラヴェット(1993年 – 1995年)、ダニエル・モダー(2002年 – )
- 著名な家族:エリック・ロバーツ(兄)、リサ・ロバーツ・ギラン(姉)、エマ・ロバーツ(姪)
生い立ち・教育
ジュリア・フィオナ・ロバーツは、1967年10月28日、ジョージア州アトランタのクロフォード・ロング病院で生まれました。両親のベティ・ルー・ブレデマスとウォルター・グレイディ・ロバーツは、元俳優であり劇作家で、米軍の公演で出会いました。二人はアトランタの俳優・作家ワークショップを共同設立し、子供向けの演劇学校も運営していました。この学校には、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの子供たちも通っており、家族の経済的苦境時にコレッタ・スコット・キングがロバーツの病院代を支払うほど親交がありました。ロバーツの血統はイングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、ドイツ、スウェーデンに遡り、カトリックとして育てられました。父親はバプテスト、母親はカトリック信者でした。
彼女には兄のエリック・ロバーツ(俳優)、姉のリーサ・ロバーツ・ギラン、そして異母妹のナンシー・モーツがいます。ナンシーは2014年に亡くなりました。両親は1972年に離婚し、母親は後にマイケル・モーツと再婚しましたが、彼は虐待的な義父としてロバーツから嫌われ、1983年に離婚しました。父親はロバーツが10歳の時にがんにより亡くなり、家族に深い悲しみを残しました。このような家庭環境の中で、ロバーツは幼少期から演劇に親しみ、獣医になることを夢見て育ちました。学校のバンドでクラリネットを演奏するなど、音楽にも触れました。
教育面では、ジョージア州スマーナのキャンベル高校を卒業しました。高校時代は演劇部に所属し、才能を発揮しました。卒業後、獣医の道を諦め、俳優の道を選び、ニューヨーク市に移住しました。そこでクリック・モデリング・エージェンシーと契約し、モデルとして活動を始めながら、演技のクラスを受講しました。ジョージア州立大学で短期間ジャーナリズムを学んだものの、中退して本格的に芸能界へ進みました。この時期の決断は、彼女の人生を大きく変えるものでした。家族の芸術的なバックグラウンドが、彼女の創造性を育み、後の成功の基盤となりました。ロバーツ自身、両親の影響を強く受け、演劇が家族の絆を強めたと語っています。
経歴
ジュリア・ロバーツの経歴は、1980年代後半の小さな役割から始まり、瞬く間にハリウッドのトップスターへと上り詰めました。1987年にテレビシリーズ『クライム・ストーリー』にゲスト出演したのがデビューで、翌1988年の映画『サティスファクション』でスクリーンデビューを果たしました。この作品では、ロックバンドのマネージャー役を演じ、若々しい魅力を発揮しました。しかし、真のブレイクは同年の『ミスティック・ピザ』で、ティーンエイジャーのウェイトレス役を熱演し、批評家からエネルギッシュな演技を称賛されました。
1989年の『スティール・マグノリアズ』では、糖尿病の花嫁役を演じ、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞を受賞しました。この成功が彼女の地位を確立しました。1990年の『プリティ・ウーマン』は転機で、リチャード・ギア演じるビジネスマンと出会う娼婦役を演じ、世界興行収入4億6340万ドルを記録。ゴールデングローブ賞とアカデミー賞主演女優賞ノミネートを獲得し、「アメリカのスイートハート」の称号を得ました。この作品は、彼女の象徴的な笑顔を世界に広めました。
1990年代初頭には、スリラー作品にも挑戦。『フラットライナーズ』(1990年)や『エネミー・オブ・アメリカ』(1991年)で多様な演技を見せ、2年間の休養後、『ペリカン・ブリーフ』(1993年)で復帰しました。1990年代後半はロマンティック・コメディの女王として、『マイ・ベスト・フレンド・ウェディング』(1997年)や『ノッティングヒルの恋人』(1999年)で大ヒットを飛ばしました。これらの作品は、彼女のコミカルで魅力的な側面を強調しました。
2000年の『エリン・ブロコビッチ』では、実在の法律助手役を演じ、アカデミー賞主演女優賞を受賞。史上初の2000万ドルのギャランティア女優となり、興行収入を牽引しました。以降、『オーシャンズ11』(2001年)や『オーシャンズ12』(2004年)などのアンサンブル作品、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』(2007年)で活躍。2014年のテレビ映画『ノーマル・ハート』でエミー賞ノミネートを獲得し、テレビ分野にも進出しました。2018年のシリーズ『ホームカミング』と2022年の『ガスリット』でさらに評価を高めました。
ロバーツは自身のプロダクション会社レッド・オム・フィルムズを運営し、『食べて祈って恋して』(2010年)やアメリカン・ガール映画シリーズ(2004-2008年)のエグゼクティブ・プロデューサーとして活躍。1990年代から2000年代初頭にかけて最高額の女優として君臨し、『モナ・リサ・スマイル』(2003年)で2500万ドルのギャラを得ました。2020年時点の純資産は2億5000万ドルと推定されます。ピープル誌から「世界で最も美しい女性」に5度選ばれ、2025年にはフランスから芸術文化功労騎士章を授与されました。彼女のキャリアは、商業的成功と批評的評価の両立を体現しています。
私生活
ジュリア・ロバーツの私生活は、華やかなキャリアとは対照的に、家族中心で穏やかなものです。1980年代後半から1990年代初頭にかけて、ジェイソン・パトリック、リーム・ニーソン、キーファー・サザーランド(1991年に婚約するも破局)、ディラン・マクダーモット、マシュー・ペリーら俳優との交際が報じられました。1993年にはカントリー歌手ライル・ラヴェットと結婚しましたが、1995年に離婚。1998年から2001年までベンジャミン・ブラットと交際しました。
2002年、映画『メキシカン』(2000年)の撮影現場で出会ったカメラマン、ダニー・モーダーと結婚。現在も円満な夫婦関係を続け、三人の子供をもうけています。2004年に双子の娘ヘーゼルとフィネアス、2007年に息子ヘンリーが生まれました。2010年にヒンドゥー教に改宗し、子供たちにヒンドゥー神の名を付けました。これは2009年のインド訪問と、グル・ニーム・カラオリ・ババの影響によるものです。『食べて祈って恋して』の役柄もこの精神的な旅を反映しています。
ロバーツは1995年からユニセフ親善大使を務め、環境保護や女性のエンパワーメントを支援。2024年の大統領選挙ではカマラ・ハリスを支持し、ラリーに出席して広告のナレーションを担当しました。また、リサ・マリー・プレスリーの回顧録オーディオブックのナレーションも行いました。彼女の習慣として、素足で歩くことが知られ、『フック』(1991年)のティンカーベル役でも反映されました。2023年の『ルーツを探して』で、生物学的な父方の祖先が奴隷所有者だったことを知り、複雑な感情を抱きました。私生活では、家族のプライバシーを重視し、メディア露出を控えめにしていますが、慈善活動を通じて社会貢献を続けています。このようなバランスが、彼女の長寿のキャリアを支えています。
出演作品
- ミスティック・ピザ(1988年):若いウェイトレスとして恋と家族の葛藤を描き、初期のブレイク作となりました。
- スティール・マグノリアズ(1989年):糖尿病の花嫁役で感情豊かな演技を披露し、アカデミー賞ノミネートを獲得しました。
- プリティ・ウーマン(1990年):娼婦とビジネスマンのロマンスを演じ、文化的なアイコンとなり、世界的大ヒットとなりました。
- エネミー・オブ・アメリカ(1991年):虐待夫から逃れる女性役で、スリラーの側面を示しました。
- ペリカン・ブリーフ(1993年):陰謀を暴く法学生役で、法律スリラーの魅力を発揮しました。
- マイ・ベスト・フレンド・ウェディング(1997年):友人の結婚を邪魔する役で、コメディとドラマを融合させました。
- ノッティングヒルの恋人(1999年):有名女優と本屋オーナーの恋を演じ、ロマコメの定番となりました。
- エリン・ブロコビッチ(2000年):実在の闘う母親役でアカデミー賞を受賞し、キャリアの頂点を極めました。
- オーシャンズ11(2001年):強盗団の元妻役で、アンサンブルキャストに華を添えました。
- クローサー(2004年):複雑な恋愛四角関係の写真家役で、ドラマチックな深みを加えました。
- 食べて祈って恋して(2010年):自己発見の旅をする女性役で、個人的な精神性を反映しました。
- ワンダー 君の名は奇跡(2017年):顔に障害を持つ息子の母親役で、家族ドラマを感動的に描きました。
- ベン・イズ・バック(2018年):薬物依存の息子に苦しむ母親役で、痛切な演技を披露しました。
レビュー 作品の感想や女優への思い