ジャニス・ルール(Janice Rule)は米国の女優、精神療法士。ブロードウェイや映画で活躍後、PhDを取得し心理療法士に転身。2003年死去。
出演映画に
- 招待なき招待状(1964年)
- チェイス(1966年)
- アンバッシュャーズ(1967年)、スイマー(1968年)
- 三人の女(1977年)
- ミッシング(1982年)
- アメリカン・フライヤーズ(1985年)
など。TV番組や舞台もふくめ全体として70以上のクレジットがあり、舞台からスクリーンまで幅広く活躍。
プロフィール
- 名前:ジャニス・ルール(Janice Rule)
- 本名:Mary Janice Rule
- 生年月日:1931年8月15日
- 出生地:アメリカ合衆国オハイオ州ノーウッド
- 没年月日:2003年10月17日(72歳没)
- 死没地:アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン
- 職業:女優、心理療法士
- 活動期間:1951年 – 1992年
- 配偶者:N・リチャード・ナッシュ(1956年-1956年、離婚)、ロバート・ソム(1956年-1961年、離婚、子供1人)、ベン・ギャザラ(1961年-1979年、離婚、子供1人)
生い立ち・教育
ジャニス・ルールは、1931年8月15日、アメリカ合衆国オハイオ州ノーウッドに生まれた。本名はメアリー・ジャニス・ルールである。両親はアイルランド系で、父親は工業用ダイヤモンドの販売業を営んでいた。幼少期は比較的平凡な家庭で育ち、姉の影響でダンスに興味を持つようになった。15歳の頃、シカゴの有名ナイトクラブ「シェ・パレー」でダンサーとしてデビューし、これが彼女の芸能界入りへの第一歩となった。この仕事で得た収入を元手にバレエのレッスンを受け、才能を磨いていった。
シカゴでのナイトクラブ活動を通じて、ブロードウェイへの道が開かれた。1949年、18歳の時にニューヨークへ移り、ミュージカル『ミス・リバティ』のダンサーとしてブロードウェイデビューを果たす。この経験は、彼女の演劇への情熱をさらに燃え上がらせた。教育面では、シカゴのプロフェッショナル・スクールで演劇を学び、基礎を固めた。しかし、高校の卒業を待たずに芸能の道を選び、グレンバード高校を中退している。この決断は、当時の彼女の野心的な性格を反映している。
キャリアの初期は、ダンスと演技の両立が課題だったが、彼女は持ち前の努力で乗り越えた。1951年には、ライフ誌の表紙を飾るほどの注目を集め、若手有望株として脚光を浴びた。こうした生い立ちは、彼女の強い意志と多才さを形成し、後年の心理療法士への転身にもつながる基盤となった。幼少期の家庭環境は安定していたものの、芸能界の厳しさに直面しながらも、常に向上心を失わなかった点が印象的である。
経歴
ジャニス・ルールの経歴は、舞台、映画、テレビの多岐にわたる活躍で彩られている。1951年、ワーナー・ブラザースと契約を結び、映画界に本格デビューした。初のクレジットされた役は、映画『グッドバイ、マイ・ファンシー』でのバージニア役で、スター揃いのキャストの中で存在感を発揮した。この頃、彼女はブロードウェイでも頭角を現し、1953年のウィリアム・インジ作『ピクニック』の初演でマッジ・オーエンス役を演じ、批評家から絶賛された。この役は、彼女のキャリアの転機となり、演技力の高さを証明した。
しかし、同時期にマーロン・ブランド主演の『岸壁の異邦人』(1954年)のオファーを受けたが、ブロードウェイの公演スケジュールとの兼ね合いで断念した。この選択は、後年しばしば語られるエピソードとなった。代わりに、エヴァ・マリー・セイントがその役を演じ、オスカーを受賞したのである。ルール自身は、「映画と舞台の両立が難しかった」と振り返っている。1950年代は、映画『ア・ウーマンズ・デヴォーション』(1956年)、『ガン・フォー・ア・カウワード』(1957年)、コメディ『ベル、ブック・アンド・キャンドル』(1958年)などで、多様な役柄をこなした。特に、後者ではキム・ノヴァクと共演し、魅力的な魔女のライバル役を演じた。
1960年代に入ると、ブロードウェイの『花咲く桃』や『ザ・ハッピエスト・ガール・イン・ザ・ワールド』、『ナイト・サーカス』(1958年)などで舞台女優としての地位を確立した。映画では、『招待なき招待状』(1964年)、『チェイス』(1966年)でパーティーガールの役を演じ、ディーン・マーティンとのコメディ『アンバッシュャーズ』(1967年)でユーモアを見せた。また、バート・ランカスター主演の『スイマー』(1968年)では、複雑な人間心理を描く役で評価された。テレビ分野でも活発で、『トワイライト・ゾーン』の「悪夢の子供」(1960年)でヘレン・フォーリー役を演じ、シリーズの初期エピソードに貢献した。他に『ルート66』(3エピソード)、『逃亡者』(2エピソード)、『ガン・スモーク』、『チェックメイト』などに出演し、ゲストスターとして人気を博した。
1970年代以降、彼女のキャリアは変化を迎えた。1973年から心理療法の勉強を始め、1983年にサザン・カリフォルニア精神分析研究所でPhDを取得した。以降は、女優業を続けつつ、精神療法士として活動。俳優を専門に治療し、自身の経験を活かした。映画ではロバート・アルトマン監督の『三人の女』(1977年)で謎めいた画家役を演じ、批評家から高く評価された。1980年代には『ミッシング』(1982年)、『アメリカン・フライヤーズ』(1985年)に出演し、最後の映画となった。テレビでは『バーナビー・ジョーンズ』、『ストリーツ・オブ・サンフランシスコ』、『殺人被害者の妻たち』などに出演。1992年の『レイ・ブラッドベリ・シアター』が最後のテレビ出演である。彼女の経歴は、単なる女優の域を超え、心理療法士としての第二の人生を歩んだ点で特筆される。常に多角的な才能を発揮し、業界に貢献した。
私生活
ジャニス・ルールの私生活は、華やかなキャリアとは対照的に、複雑で波乱に満ちていた。1955年、俳優のファーリー・グランジャーと婚約したが、すぐに破局した。同年、劇作家N・リチャード・ナッシュと短期間の結婚をし、同年に離婚している。1956年、映画『ザ・サブタレニアンズ』の撮影で出会った脚本家・監督のロバート・トムと再婚し、娘のケイトをもうけた。この結婚生活は、創造的な刺激を与えたが、1961年に離婚に終わった。トムとの関係は、彼女の芸術的成長に影響を与えたものの、家庭の安定を欠いていた。
1961年、俳優のベン・ガザラと結婚し、再び娘のエリザベスを授かった。この結婚は、彼女のキャリアに一時的な休止をもたらしたが、ガザラとの共演や共同生活は充実した時期でもあった。しかし、1979年に離婚。ガザラとの関係は、互いの俳優としての理解が深かった一方で、仕事のプレッシャーが負担となったようだ。以降、彼女は独身を貫き、女優業と心理療法の両立に専念した。私生活の後半は、精神分析への没頭が中心となり、患者とのセッションを通じて自身の内面的な探求を深めた。
健康面では、アルコール依存の苦しみを抱えていた時期があり、これが私生活の不安定さを増幅させた。しかし、心理療法士としての訓練が自己治癒に役立ち、晩年は落ち着いた生活を送った。2003年10月17日、ニューヨーク市で脳出血により72歳で亡くなり、火葬された。彼女の私生活は、結婚の繰り返しや家族の絆を通じて、女優としての情熱と人間的な脆弱性を物語っている。娘たちとの関係は温かく、遺産として残された。
出演作品
- 映画:グッドバイ、マイ・ファンシー(1951年)
- 映画:ア・ウーマンズ・デヴォーション(1956年)
- 映画:ガン・フォー・ア・カウワード(1957年)
- 映画:ベル、ブック・アンド・キャンドル(1958年)
- 映画:招待なき招待状(1964年)
- 映画:チェイス(1966年)
- 映画:アンバッシュャーズ(1967年)
- 映画:スイマー(1968年)
- 映画:三人の女(1977年)
- 映画:ミッシング(1982年)
- 映画:アメリカン・フライヤーズ(1985年)
- ブロードウェイ:ミス・リバティ(1949年、ダンサー)
- ブロードウェイ:ピクニック(1953年、マッジ・オーエンス役)
- ブロードウェイ:花咲く桃(1954年)
- ブロードウェイ:ザ・ハッピエスト・ガール・イン・ザ・ワールド(1961年)
- ブロードウェイ:ナイト・サーカス(1958年)
- テレビ:トワイライト・ゾーン「悪夢の子供」(1960年、ヘレン・フォーリー役)
- テレビ:ルート66(3エピソード、1960年代年)
- テレビ:逃亡者「妻殺し」「夜の壁」(1960年代)
- テレビ:ガン・スモーク(複数エピソード)
- テレビ:チェックメイト「復讐の仮面」(1960年)
- テレビ:バーナビー・ジョーンズ(1973年、第2エピソード)
- テレビ:ストリーツ・オブ・サンフランシスコ(第2エピソード)
- テレビ:レイ・ブラッドベリ・シアター(1992年)
- その他:ハヴ・ガン・ウィル・トラベル「ペルディードへの三つの鐘」(デビューエピソード)
これらの作品は、彼女の多様な才能を象徴するもの。主なものを列挙しましたが、全体として70以上のクレジットがあり、舞台からスクリーンまで幅広く活躍しています。
レビュー 作品の感想や女優への思い