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『薔薇の名前』映画と原作の違い

ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』(1980年)と、その映画化作品(1986年、監督:ジャン=ジャック・アノー)は、中世イタリアの修道院を舞台にしたミステリであり、知識と信仰の対立を描く点で共通しています。しかし、映画は原作の複雑な哲学的・記号論的要素を簡略化し、視覚的な娯楽性を重視した適応が施されています。以下、両者の主な違いを、ストーリー、キャラクター、テーマ、描写、構造の観点から詳細に解説します。

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ストーリーの違い

原作と映画の基本的なプロットは、1327年の北イタリアのベネディクト会修道院で、フランシスコ会の修道士ウィリアムと弟子アドソが連続怪死事件を捜査するという点で一致しています。しかし、映画は原作の複雑な物語を132分の尺に収めるため、いくつかのエピソードや詳細が省略・変更されています。

原作では、ウィリアムとアドソが到着する前に、修道院での出来事が詳細に描写され、修道士たちの対立や神学論争が深く掘り下げられています。例えば、フランシスコ会と教皇派の間の政治的緊張や、貧困をめぐる神学論争が、物語の背景として重要な役割を果たします。これに対し、映画ではこの背景が簡略化され、フランシスコ会と教皇派の対立はベルナール・ギーの登場で最小限に示されるのみでございます。会議の詳細や政治的議論はほとんど描かれておりません。

また、原作では殺人事件の動機や手がかりが、より複雑な形で提示されます。アリストテレスの『詩学』第二巻(喜劇論)が事件の核心である点は同じですが、原作では書物の内容やその象徴性が詳細に議論され、知識の抑圧と教会の権力の関係が深く掘り下げられています。映画では、毒殺の仕組みや図書館の迷宮的構造に焦点を当て、ミステリとしての展開を優先し、哲学的議論は大幅に削減されています。

さらに、原作では事件の解決後も、ウィリアムとアドソが修道院を去るまでの余波や、アドソの回想録としての枠組みが丁寧に描かれています。一方、映画では、図書館の火災とベルナール・ギーの死で物語が急速に終結し、アドソの回想録としての枠組みは簡略化され、物語の終わりがより劇的に演出されています。このため、映画は原作よりも直線的で、娯楽性を重視した展開となっています。

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キャラクターの違い

キャラクターの描写においても、映画と原作では大きな違いが見られます。原作のウィリアムは、シャーロック・ホームズを思わせる論理的探偵でありながら、中世の知識人として神学や哲学に精通しており、オッカムのウィリアムやロジャー・ベーコンに着想を得た深い知性を持しています。彼の会話は、記号論や中世のスコラ学の議論に満ち、読者に知的挑戦を投げかけます。映画のウィリアム(ショーン・コネリー)は、知的な探偵としての魅力は保持しつつも、哲学的議論は減少し、より行動的なヒーロー像に近づけられています。コネリーの演技は重厚ですが、原作のウィリアムの内省的な側面は薄まっています。

アドソ(映画ではクリスチャン・スレーター)は、原作では若く純粋な修道士で、ウィリアムの弟子として知識と信仰の間で葛藤する姿が詳細に描かれています。彼の恋愛体験や、少女との関係を通じた成長が、原作では心理的に掘り下げられ、禁欲と情欲の対立がテーマとして強調されます。映画では、アドソの恋愛が視覚的に強調され、ヴァレンティナ・ヴァルガス演じる少女との親密なシーンが物語の感情的中心となりますが、心理的葛藤は簡略化され、青春のロマンスとして描かれています。

少女のキャラクターも、原作と映画で異なります。原作では、少女は名前を持たず、言葉もほとんど話さない存在で、象徴的な役割が強いです。彼女は貧困と無垢を体現し、修道院の禁欲主義に対する対比として機能します。映画では、少女の出番が増え、視覚的な魅力が強調され、アドソとの恋愛が物語の重要なサブプロットとなっています。この変更は、映画の観客に感情移入を促すための工夫と考えられます。

脇役では、ベルナール・ギーやホルヘ、サルヴァトーレなどのキャラクターも、映画では個性が強調され、原作の複雑な背景が簡略化されています。例えば、原作のホルヘは、知識の抑圧を象徴する複雑な人物で、映画ではより単純な悪役として描かれます。サルヴァトーレやレミージオも、原作では異端や社会階級の問題に関連する詳細な背景がありますが、映画ではコミカルまたは悲劇的な脇役として扱われ、背景は省略されています。

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テーマの違い

原作の『薔薇の名前』は、記号論の巨匠ウンベルト・エーコの作品らしく、知識、言語、信仰、権力の複雑な関係を探求する哲学的小説でございます。物語は、記号とその解釈、真理の相対性、中世の知識抑圧をテーマに展開し、読者に多層的な解釈を要求します。特に、図書館は失われた知識のメタファーであり、アリストテレスの喜劇論は、笑いや自由な思考が教会によって抑圧される象徴として描かれています。また、貧困をめぐる神学論争や、異端審問の暴力性を通じて、中世の権力構造が批判されます。

映画は、これらのテーマを大幅に簡略化し、ミステリとサスペンスに焦点を当てています。知識と信仰の対立は、ウィリアムとホルヘの対立や、図書館の秘密を通じて暗示されますが、原作のような深い哲学的議論はほとんどありません。映画では、殺人事件の解決と、図書館の火災という劇的なクライマックスが中心となり、視覚的なインパクトが優先されます。原作の記号論的要素や、物語の枠組み(アドソの回想録としての構造)は、映画では背景に退き、観客に直接的な物語体験を提供することに重点が置かれています。

また、原作では笑いや喜劇が、教会の権威に対する挑戦として重要なテーマですが、映画ではこのテーマが簡略化され、ホルヘの動機としてのみ示されます。映画は、原作の知的挑戦を娯楽性に置き換え、広範な観客に訴えることを目指した結果、テーマの深みが一部失われています。

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描写と演出の違い

原作は、文章による詳細な描写で、中世の修道院の雰囲気や生活を生き生きと再現しています。修道院の構造、図書館の迷宮、修道士たちの日常、食事、祈りの場面が細かく描かれ、読者は中世の世界に没入します。また、会話や独白を通じて、哲学や神学の議論が展開され、物語に奥行きを与えています。エーコの文体は、時に難解で、学術的な知識を背景に、読者に積極的な解釈を求めます。

映画は、視覚と音響を活用し、中世の雰囲気をリアルに再現することに成功しています。エーバーバッハ修道院でのロケ撮影、ダンテ・フェレッティの美術、ジェームズ・ホーナーの音楽により、荘厳で陰鬱な修道院の空気が伝わります。しかし、原作の詳細な描写は時間の制約から省略され、例えば修道士の日常生活や、図書館の複雑な構造は、映像として簡略化されています。映画は、殺人事件の視覚的インパクト(舌や指の黒変、毒殺の描写)や、火災のスペクタクルに力を入れ、原作の内省的な叙述をアクションとサスペンスに置き換えています。

特に、少女とアドソの恋愛シーンは、映画で視覚的に強調され、原作の心理的描写よりも直接的で情熱的な演出となっています。原作では、アドソの恋愛体験は内面的な葛藤として描かれ、禁欲と情欲の対立が強調されますが、映画ではロマンティックな場面として描かれ、観客に感情的な共感を呼び起こします。この変更は、映画の商業的成功を狙った戦略と考えられます。

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構造とトーンの違い

原作は、7日間の出来事を日ごとに章立てし、アドソの回想録として叙述される多層的な構造を持っています。この枠組みにより、物語は過去の出来事を振り返る老修道士の視点から描かれ、歴史的・哲学的な考察が加えられます。物語のトーンは、知的で内省的であり、読者に解釈の余地を与える文学作品として設計されています。エーコの意図は、単なるミステリではなく、知識と信仰、記号と意味の探求にあり、物語の終わりには曖昧さが残ります。

映画は、直線的な物語構造を採用し、ミステリ映画としての緊張感を維持します。原作の枠組み(回想録)は簡略化され、アドソのナレーションが冒頭と終わりにある程度にとどまります。トーンは、原作の内省的な雰囲気よりも、劇的でサスペンスフルであり、ホラーやアクションの要素が加えられています。図書館の火災やベルナール・ギーの死は、映画的なクライマックスとして強調され、原作の曖昧な結末は、より明確で劇的な解決に置き換えられています。このため、映画は原作の文学的複雑さを犠牲にし、視覚的なインパクトと物語の完結性を優先しています。

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結論

『薔薇の名前』の映画は、原作の複雑な哲学的・記号論的要素を簡略化し、ミステリと歴史ドラマとしての娯楽性を強調した適応作品でございます。ストーリーでは、政治的・神学的な背景が省略され、殺人事件の解決に焦点が当てられています。キャラクターは、より視覚的で感情的な描写に変更され、特に少女の役割が強調されています。テーマは、知識と信仰の対立を維持しつつ、原作の深遠な議論が減少し、映画的なサスペンスが優先されます。描写と演出は、原作の詳細な叙述を視覚的なリアリズムに置き換え、構造とトーンは直線的で劇的なものに変えられています。

原作者エーコ自身は、映画を「原作の一部を切り取ったクラブサンドイッチ」と評し、完全な再現ではないものの、独立した作品として成功していると認めました。映画は、原作のエッセンスを保ちつつ、広範な観客に訴えるために必要な変更を加え、ショーン・コネリーの演技や中世の雰囲気の再現で高い評価を得ました。しかし、原作の知的挑戦や文学的深みを求める読者には、映画は物足りなく感じられるかもしれません。両者は、異なるメディアの特性を活かしつつ、同じ物語を異なる視点で語る補完的な作品と言えるでしょう。

補足

文化的背景と適応の影響

原作の『薔薇の名前』は、1980年代のヨーロッパ文学の文脈で生まれ、ポストモダニズムの影響を強く受けています。エーコは、記号論者として、物語を通じて言語や記号の解釈を問い、読者に多義的な読みを促しました。原作の読者は、中世の知識やラテン語の引用に慣れていることを前提とし、物語の背後にある文化的・歴史的コンテキストを理解することが求められます。これに対し、映画は1980年代のハリウッド映画の文脈で製作され、国際的な観客を意識した商業作品として設計されました。このため、原作の学術的な要素は、視覚的な魅力やストーリーテリングの簡潔さに置き換えられ、文化的背景の説明は最小限に抑えられました。

例えば、原作では、フランシスコ会とドミニコ会の対立や、貧困論争が詳細に描かれ、中世の教会政治の複雑さが浮き彫りにされます。これらの要素は、14世紀のヨーロッパの宗教的・社会的緊張を反映し、物語に歴史的リアリティを与えます。映画では、これらの背景はウィリアムとベルナール・ギーの対立に簡略化され、観客が歴史的知識を必要とせず物語を追えるよう工夫されています。この変更は、映画のアクセシビリティを高める一方、原作の文化的深みを一部失わせました。

また、映画の製作には、ヨーロッパとハリウッドの共同作業が影響しました。フランス、イタリア、西ドイツの合作である本作は、ヨーロッパの歴史的リアリズムを重視しつつ、ハリウッド的な娯楽性を求めるバランスを取っています。監督ジャン=ジャック・アノーは、原作の雰囲気を視覚的に再現することに成功しましたが、物語の複雑さを削減することで、原作のファンと映画の観客の両方を満足させる試みを行いました。このバランスが、映画の賛否両論の一因ともなりました。

視覚的表現と文学的表現の違い

原作の強みは、エーコの緻密な文体と叙述にあると言えます。物語はアドソの視点から語られ、彼の主観的な観察や感情が、読者に中世の感覚を伝えつつ、現代的な視点を提供します。例えば、図書館の迷宮は、原作では単なる物理的空間ではなく、知識の複雑さとアクセスの困難さを象徴するメタファーとして機能します。この空間の描写は、詳細な説明と哲学的考察を通じて、読者の想像力を刺激します。

映画では、図書館の迷宮は視覚的に再現され、ダンテ・フェレッティの美術デザインにより、暗く複雑な空間として表現されます。しかし、原作のような象徴的意味の深掘りはなく、ミステリの舞台としての機能が強調されます。映画の視覚的表現は、原作の叙述的複雑さを補う一方、物語の解釈を観客に委ねる余地を減らしました。例えば、原作ではホルヘの動機が、笑いと知識の危険性に対する哲学的信念に基づいて詳細に説明されますが、映画では彼の行動が単純な狂信として描かれ、視覚的な悪役像に簡略化されます。

この視覚的・文学的表現の違いは、メディアの特性によるものです。原作は読者の知性と想像力に依存し、映画は視覚と感情に訴えることで物語を伝えました。このため、映画は原作の多層的な意味を一部犠牲にしつつ、独自の魅力を作り出しました。

映画ガイド
なむ

洋画好き(字幕派)。だいたいU-NEXTかNetflixで、妻と2匹の猫と一緒にサスペンスやスリラーを観ています。詳細は名前をクリックしてください。猫ブログ「碧眼のルル」も運営。

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