インターセクショナリティ(intersectionality)は、複数の社会的アイデンティティや差別軸が交差(intersect)し、それらが相互に影響を与え合うことで生じる複合的な抑圧や特権を分析する枠組みである。
この概念は、単一の差別(例:ジェンダー差別のみ)を扱うのではなく、人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、障害、年齢、国籍などの複数の要因が重なり合うことを強調する。結果として、個人の経験はこれらの軸の組み合わせによって独自の形で形成され、差別は加算的ではなく乗算的に増幅される。例えば、黒人女性はジェンダー差別と人種差別の両方を同時に経験し、それが白人女性の経験とは異なる独自の抑圧を生む。
この用語は、1989年にアメリカの法学者キンバリー・クレンショー(Kimberlé Crenshaw)によって提唱された。クレンショーは、黒人女性の雇用差別訴訟を分析した論文「Demarginalizing the Intersection of Race and Sex」で、従来の差別法が人種かジェンダーのいずれかしか考慮せず、両方の交差を無視することを批判した。
例として、General Motors社の訴訟を挙げ、黒人女性が白人女性や黒人男性とは異なる差別を受けているのに、法廷でそれが認められなかった点を指摘した。クレンショーはこれを「交差点」に喩え、複数の道路(差別軸)が交わる場所で事故(抑圧)が起こる可能性が高いと説明した。
この概念は、ブラック・フェミニズムの伝統に根ざし、19世紀の奴隷制度廃止論者ソジャーナー・トゥルースの演説「Ain’t I a Woman?」(1851年)や、Combahee River Collectiveの声明(1977年)に見られる多重抑圧の議論を継承している。
インターセクショナリティは、フェミニズムの第三波(1990年代)以降に普及し、単一軸のフェミニズム(主に白人中産階級女性中心)を批判した。クレンショー自身は、2017年のインタビューで、この概念が黒人女性の経験から生まれたが、普遍的に適用可能だと述べている。
理論的背景と枠組み
インターセクショナリティの理論的基盤は、ポストモダン思想や批判理論にあり、構造的抑圧を多角的に分析する。従来の社会理論が「加算的」アプローチ(例:人種差別+ジェンダー差別)を取っていたのに対し、インターセクショナリティは「交差的」アプローチを提唱する。つまり、差別は独立したものではなく、相互に強化し合い、新たな形態を生む。例えば、貧困層のLGBTQ+有色人種女性は、ジェンダー、人種、階級、セクシュアリティの交差により、医療アクセスや雇用機会がさらに制限される。
この枠組みは、以下の3つのレベルで機能する。
- 構造的レベル:社会制度(法、教育、雇用)が複数の軸で差別を永続化する。例えば、賃金格差は女性全体に影響するが、有色人種女性はさらに低い賃金に直面する。
- 政治的レベル:運動や政策が単一軸に偏ると、他のグループを排除する。例えば、フェミニズムが白人女性中心になると、有色人種女性の声が無視される。
- 表現的レベル:メディアや文化がステレオタイプを強化し、交差的なアイデンティティを歪曲する。例えば、黒人女性が「強い母親」として描かれるのは、人種とジェンダーの交差によるもの。
インターセクショナリティは、ベル・フックス(bell hooks)やパトリシア・ヒル・コリンズ(Patricia Hill Collins)のブラック・フェミニズム理論と密接に関連し、コリンズの「Matrix of Domination」(抑圧のマトリックス)では、抑圧が階層的・関係的に機能することを説明する。これにより、特権も分析可能で、白人男性はジェンダーと人種の特権を持つが、階級が低いとそれが緩和される。
実例と適用
インターセクショナリティの適用例は多岐にわたる。雇用では、黒人女性の失業率が白人女性より高いのは、人種とジェンダーの交差によるもの。医療では、トランスジェンダーの有色人種が差別を受けやすく、COVID-19パンデミックで顕著だった。暴力では、家庭内暴力が移民女性に深刻で、言語や法的地位の交差が助けを求めるのを阻害する。
フェミニズムでの適用として、#MeToo運動はインターセクショナリティを強調し、白人女性中心の議論を有色人種女性の経験に広げた。例えば、タラナ・バーク(Tarana Burke)が創始した#MeTooは、黒人少女の性的暴力に焦点を当てた。環境問題では、エコフェミニズムがジェンダーと人種の交差を分析し、先住民女性が気候変動の影響を強く受けることを指摘する。教育では、障害を持つ有色人種少女のドロップアウト率が高いのは、複数の抑圧の結果だ。
日本での例として、外国人労働者女性(例:フィリピン人メイド)がジェンダー、人種、階級の交差で搾取される。LGBTQ+コミュニティでは、トランス女性の貧困がジェンダーとセクシュアリティの交差によるもの。
批評と限界
インターセクショナリティにはいくつかの批評がある。一つは、アイデンティティを過度に細分化し、社会問題を分断化する「アイデンティティ・ポリティクス」の促進だ。批評家は、これが連帯を阻害し、普遍的な解決を難しくすると主張する。例えば、保守派はこれを「被害者競争」として批判する。
もう一つは、概念の曖昧さで、すべての差別を説明しようとするが、具体的な解決策が不足する点。クレンショー自身は、これをツールとして位置づけ、誤用を警告している。また、白人中心のフェミニズムがインターセクショナリティを「多様性」のスローガンに矮小化する問題もある。グローバルな文脈では、西洋中心で発展途上国の文脈を無視する「インペリアル・フェミニズム」の批判がある。
現代の議論と発展(2025年現在)
2025年現在、インターセクショナリティはフェミニズムの基盤として定着しつつ、議論が活発だ。X(旧Twitter)の最近の投稿では、インターセクショナリティがフェミニズムで誤用されていると指摘され、例えば白人女性の特権が男性有色人種を上回る点が議論されている。
また、トランス女性の排除がインターセクショナリティに反すると主張する声や、男性嫌悪(ミサンドリー)への懸念がある。
研究では、インターセクショナリティが女性の支持が高いが男性の支持が低い「ジェンダー化された現象」として分析されている。
カーセル・フェミニズム(刑罰中心のフェミニズム)がインターセクショナリティを無視し、警察や刑務所の利益を優先すると批判される。
インターセクショナリティは、AIやデジタル差別の分析にも拡張され、アルゴリズムが人種とジェンダーのバイアスを増幅することを指摘する。SDGsの文脈で、ジェンダー平等(目標5)と貧困削減(目標1)の交差が強調されている。最終的に、この概念は社会正義のツールとして、包括的な変革を促す力を持っている。


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