レイモン・ジャンの小説『読書する女』(原題:La Lectrice、1986年)のあらすじ、感想、解説。これは、朗読を仕事とする女性マリーが、個性的な依頼者たちと織りなす人間模様を描くフランス小説。現実とフィクションが交錯し、文学と官能が融合した知的で幻想的な物語。1988年に映画化され、独自の魅力で読者を惹きつけます。
あらすじ
『読書する女』の主人公は、コンスタンスという女性で、物語は彼女が恋人に「読書する女」という本を朗読する場面から始まります。この小説の中の物語として、コンスタンスは自身を小説の主人公マリーと重ね合わせ、物語が展開します。マリーは美しい声を持つ女性で、仕事として出張朗読サービスを提供することを思いつきます。彼女は新聞広告を出し、「文学書、ノンフィクション、その他何でも」朗読すると宣言。依頼者たちは、それぞれ独特の背景や欲望を抱えた人物たちです。
最初の依頼者は、車椅子の少年エリック。彼は思春期の情熱に駆られ、モーパッサンの官能的な短編をリクエストします。マリーの朗読は少年の心を刺激し、彼の内面に変化をもたらします。次に、自称100歳の将軍の未亡人である女伯爵は、マルクスや革命に関する本を求め、過去の記憶と向き合います。多忙な実業家は、教養書を朗読する中でマリーに愛人としての役割を期待し、複雑な関係が生まれます。さらに、6歳の少女コラリーや、退職した老判事など、個性的な依頼者が登場。老判事がリクエストしたサドの「ソドムの120日」は、マリーに危険で挑発的な体験をもたらします。
物語は、マリーが朗読を通じて依頼者たちの内面に深く入り込み、彼らの欲望や孤独、幻想と向き合う様子を描きます。彼女自身も、朗読する文学作品の世界と現実の境界が曖昧になり、自身の感情や欲望に揺さぶられます。物語の終盤では、現実のコンスタンスと小説のマリーの視点が交錯し、フィクションと現実が一体化するような不思議な結末を迎えます。マリーの朗読は、単なる仕事を超え、人間関係や自己探求の旅となり、読者に解釈の余地を残します。
感想

読みやすい!
『読書する女』を読んで、まず印象に残ったのは、レイモン・ジャンが描く独特でフランス的な感性。物語は軽やかなコメディの要素をもちつつ、知的で官能的な雰囲気が漂い、読者を魅了します。マリーの朗読という行為は、単なる読み聞かせではなく、依頼者の心の奥底に触れ、彼らの隠された欲望や感情を引き出す触媒となっています。この点で、文学が持つ力と人間の内面の複雑さを巧みに表現していると感じました。
特に、依頼者一人ひとりの個性が際立っており、それぞれのエピソードが短編小説のように独立しながらも、全体としてマリーの成長や変化を浮き彫りにします。車椅子の少年の純粋さと不安、女伯爵の誇り高い孤独、実業家の打算的な欲望など、どの人物も生き生きと描かれており、彼らとの対話を通じてマリー自身が自己を見つめる過程が興味深いです。
また、現実とフィクションの境界が曖昧になる構成は、読者に物語の構造そのものを意識させ、文学の楽しみを倍増させます。マリーが朗読する作品が、モーパッサンやボードレール、サドなど幅広い文学に及び、それぞれが依頼者の性格や状況に呼応している点も、作品の奥深さを際立たせています。個人的には、フランス映画のような色彩豊かで軽妙な語り口が心地よく、読後には文学と人生のつながりについて思いを馳せました。
一方で、物語の結末が曖昧である点は、好みが分かれるかもしれません。明確な解決や結論を求める読者には物足りなさを感じる可能性がありますが、逆に、想像の余地を残すこの終わり方が、作品の幻想的な魅力の一部だと感じました。
解説
『読書する女』は、レイモン・ジャン(Raymond Jean、1925〜2012年)が1986年に発表した小説で、フランス文学の伝統である知的で遊び心のあるスタイルを体現しています。この作品は、1988年にミシェル・ドヴィル監督によって映画化(読者する女)され、モントリオール世界映画祭アメリカ・グランプリやルイ・デリュック賞を受賞するなど、高い評価を受けました。映画では、ミュウ=ミュウがコンスタンス/マリーを演じ、視覚的な美しさと軽妙なコメディ要素が加わり、原作の雰囲気をさらに際立たせています。
本作の最大の特徴は、物語の入れ子構造です。コンスタンスが恋人に朗読する「読書する女」という小説の中のマリーの物語が展開し、読者は現実とフィクションの境界を揺さぶられます。この構造は、フランス文学におけるメタフィクションの手法を思わせ、ジャン=リュック・ゴダールやジャック・リヴェットの映画のような実験性を文学に持ち込んでいます。マリーが朗読する作品が依頼者の内面や欲望とリンクすることで、文学が単なる娯楽を超え、人間の心理や社会を映し出す鏡となる様子が描かれます。
また、本作はフランス的な「官能」と「知性」の融合を巧みに表現しています。マリーの朗読は、依頼者にとって文学的な体験であると同時に、性的な憧憬や感情的な交流の場でもあります。特に、サドの「ソドムの120日」などの過激なテキストが登場する場面では、文学の危険性や挑発性が強調され、読者に倫理や欲望について考えさせます。この点で、作品は単なる軽いコメディではなく、人間の本質を探る深いテーマを内包しています。
社会的文脈では、1980年代のフランスにおける文化や文学の役割を反映しているとも言えます。当時のフランスは、ポストモダン文学や映画が隆盛を極め、伝統と革新が交錯する時代でした。『読書する女』は、古典的な文学作品を現代的な視点で再解釈し、読者や観客に新たな文学体験を提供することを試みた作品です。
さらに、マリーという女性のキャラクターは、自由と独立性を象徴しています。彼女は依頼者の要求に応じつつも、決して流されることなく、自身の声と存在感で状況をコントロールします。この点で、フェミニズム的な視点から見ても興味深い人物像と言えるでしょう。彼女の「人たらし」な魅力は、単なる美貌や声の美しさだけでなく、他者の心を理解し、共鳴する能力に由来しています。
まとめ
『読書する女』は、レイモン・ジャンが贈る知的で官能的なフランス文学の傑作です。朗読を通じて人間の欲望や孤独を描き、現実とフィクションの境界を曖昧にする独特の構造が魅力です。軽やかな語り口と深いテーマが共存し、読者に文学の力と人生の複雑さを考えさせます。映画化(読者する女)もされたこの作品は、フランス文化のエッセンスを感じたい方や、物語の多層性を楽しみたい方にぜひおすすめしたい一冊です。


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