ルシール・ボール(LUCILLE BALL)は、1911年8月6日生まれのアメリカのコメディアン、女優、モデル、プロデューサーです。1989年4月26日に77歳で没しました。
テレビのシットコム『アイ・ラブ・ルーシー』でルーシー・リカルド役を演じ、爆発的な人気を博しました。Desilu Productionsを設立し、女性初のテレビ制作会社経営者として『スパイ大作戦』や『スタートレック』をプロデュースしました。エミー賞を5回受賞し、ゴールデングローブ賞のセシル・B・デミル賞など数々の栄誉を受け、20世紀の影響力ある女性として知られます。
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プロフィール
生い立ち・教育
ルシール・ボール(LUCILLE BALL)は、1911年8月6日にニューヨーク州ジェームズタウンで生まれました。本名はルシール・デジレ・ボールです。父親のヘンリー・ダレル・ボールはベル電話会社の電信技師で、母親のデジレ・エヴリン・ハントは家事に従事していました。家族はバプテスト教会の信者で、祖先は主にイングランド系ですが、スコットランド、フランス、アイルランドの血統も混じっています。父親の仕事のため、幼少期にモンタナ州アナコンダやミシガン州ワイアンドットに引っ越しました。
1915年、父親が腸チフスで27歳の若さで亡くなり、ルシールは3歳でした。この時、母親は弟のフレッドを妊娠中でした。父親の死は彼女に深い影響を与え、鳥が家に入った出来事が生涯の鳥恐怖症の原因となりました。母親は実家に戻り、祖父母の助けで子供たちを育てました。夏の避暑地セレロンで過ごし、遊園地やヴォードヴィルに親しみました。祖父のフレッド・ハントは演劇好きで、家族を劇場に連れ出し、学校演劇に参加させました。4年後、母親がエドワード・ピーターソンと再婚し、ルシールは厳格な義祖父母の下で育てられました。彼らは鏡を禁じ、身だしなみを整えるのを叱責したため、彼女は虚栄を避けるようになりました。この経験は後の美容観に影響を与えました。12歳の時、義父の勧めでシュライナーズのコーラスラインのオーディションを受け、舞台の喜びを知りました。1927年、祖父の家が売却され、アパートに転居しました。
教育面では、正式な高等教育は受けていませんが、14歳で不良少年との交際を断つために母親が演劇学校入学を約束しました。1926年にニューヨークのジョン・マレー・アンダーソン演劇学校に入学し、ベティ・デイヴィスと同級生でした。しかし、才能不足を指摘され、退学を勧められました。1928年、ハッティ・カーネギーのファッションモデルとなり、関節リウマチで2年間休養しましたが、1932年に回復し、モデルやブロードウェイのコーラスガールとして活動を再開しました。この実践的な経験が彼女のキャリアの基盤となりました。学校での挫折は、彼女をより強い意志の持ち主に育てました。こうした生い立ちは、ユーモアと忍耐力を養い、後のコメディ女優としての成功につながりました。
経歴
ルシール・ボールのキャリアは1929年にモデルとして始まりました。芸名ダイアン・ベルモントを使い、ブロードウェイでコーラスガールを務めました。1933年、ハリウッドに移り、RKOと契約し、『羅馬太平記』でゴールドウィン・ガールとして無クレジット出演しました。1930年代はB級映画の端役が多く、『三ばか大将』の短編や『ロバータ』、『トップ・ハット』、『艦隊を追って』でフレッド・アステアやジンジャー・ロジャースと共演しました。『ステージ・ドア』ではキャサリン・ヘプバーンと共演し、女優を目指す役を演じました。1936年の舞台『Hey Diddle Diddle』で主演しましたが、短期間で終了しました。ラジオでは1937年の『The Phil Baker Show』、1938年の『The Wonder Show』でゲイル・ゴードンと出会い、50年にわたる協力関係を築きました。
1940年代、MGMに移籍し、『ダンス・ガール・ダンス』や『トゥー・マニー・ガールズ』で主演し、デシ・アーナズと出会いました。『ビッグ・ストリート』でヘンリー・フォンダと、『デュバリイは貴婦人』で主演し、赤毛に染めました。『ジーグフェルド・フォリーズ』や『ラヴァー・カム・バック』、『ダーク・コーナー』、『ルアド』に出演し、「B級映画の女王」と呼ばれました。1948年、ラジオ『My Favorite Husband』でリズ・クーパー役を演じ、テレビ化の基となりました。
1951年、『アイ・ラブ・ルーシー』をデシと共同制作し、ルーシー・リカルド役で大ヒットしました。妊娠を番組に取り入れ、視聴率を独占しました。Desilu Productionsを設立し、多カメラ撮影や再放送権で革新を起こしました。1954年の『長い長いトレイラー』、1956年の『永遠のダーリング』で映画復帰しました。1957年から1960年まで『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』を放送しました。
1960年、ブロードウェイミュージカル『ワイルドキャット』で主演し、1962年から1968年まで『ザ・ルーシー・ショー』でルーシー・カーマイケル役を、1968年から1974年まで『陽気なルーシー』でルーシー・カーター役を演じました。Desiluで『スパイ大作戦』や『スタートレック』をプロデュースし、1967年に売却しました。1974年の『メイム』で映画主演、1985年のテレビ映画『ストーン・ピロー』でドラマ役に挑戦しました。1986年の『ライフ・ウィズ・ルーシー』は短命に終わりました。彼女の経歴は、モデルから女優、プロデューサーへの進化を示し、テレビ業界に多大な影響を与えました。晩年まで活躍し、業界の女性先駆者として評価されます。
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服飾・美容
ルシール・ボールは、幼少期の厳格な義祖父母の影響で鏡を避け、虚栄を戒められました。この経験が、彼女の自然体な美容観を形成しました。
モデル時代にハッティ・カーネギーでファッションを学び、ブロンドから赤毛に染め、トレードマークとしました。『デュバリイは貴婦人』で赤毛を採用し、コメディでの派手なメイクや変装が特徴です。『アイ・ラブ・ルーシー』では、ドタバタシーンで実用的な衣装を着用し、親しみやすいスタイルを確立しました。ウィッグや派手なドレスを多用し、視覚的なユーモアを強調しました。
美容面では、赤いリップと自然なメイクが目立ち、健康的な魅力を保ちました。彼女のファッションは、エンターテイメント性が高く、後世のコメディアンに影響を与えました。晩年もシンプルなスタイルを貫き、年齢を感じさせない若々しさを保ちました。この姿勢は、自立した女性像を象徴します。
私生活
ルシール・ボールは、プライベートを大切にしつつ、キャリアと家族を両立させました。1940年、『トゥー・マニー・ガールズ』でデシ・アーナズと出会い、駆け落ち結婚しました。1942年にチャッツワースの牧場を購入し、1944年に離婚申請しましたが和解しました。1951年に長女ルーシー・アーナズ、1953年に長男デジ・アーナズ・ジュニアを出産し、妊娠を『アイ・ラブ・ルーシー』に取り入れました。1950年代後半、Desiluのストレスで関係が悪化し、1960年に離婚しましたが、友人として協力しました。1961年、スタンダップコメディアンのゲイリー・モートンと再婚し、27年間連れ添いました。モートンは13歳年下で、彼女の会社でプロデューサーとなりました。子供たちの交友に厳しく、息子の交際を批判しました。親友にジンジャー・ロジャースやヴィヴィアン・ヴァンスがいました。
1980年代、ゲイ権利を支持し、才能ある人々だと述べました。健康問題を抱え、1988年に心臓発作を起こし、1989年4月26日に大動脈瘤破裂で亡くなりました。遺灰は2002年にジェームズタウンの家族墓に改葬されました。彼女の私生活は、情熱的な結婚と家族愛が特徴です。
出演作品
映画
- 羅馬太平記(1933年、ゴールドウィン・ガール、無クレジット)
- 三ばか大将(1934年、短編)
- ロバータ(1935年、モデル)
- トップ・ハット(1935年、花屋の店員)
- 艦隊を追って(1936年、脇役)
- ステージ・ドア(1937年、ジュディス)
- ダンス・ガール・ダンス(1940年、主演)
- トゥー・マニー・ガールズ(1940年、主演)
- ビッグ・ストリート(1942年、グロリア・ライオンズ)
- デュバリイは貴婦人(1943年、マダム・デュ・バリー)
- ベスト・フット・フォワード(1943年、本人役)
- ジーグフェルド・フォリーズ(1945年、ダンスシーン)
- ラヴァー・カム・バック(1946年、主演)
- ダーク・コーナー(1946年、脇役)
- ルアド(1947年、サンドラ・カーペンター)
- 長い長いトレイラー(1954年、トレイシー・コリソン)
- 永遠のダーリング(1956年、スーザン・ヴェガ)
- ファクツ・オブ・ライフ(1960年、キティ・ウィーバー)
- 合併結婚(1968年、ヘレン・ノース)
- メイム(1974年、メイム・デニス)
テレビ
- マイ・フェイバリット・ハズバンド(1948年、リズ・クーパー、ラジオ)
- アイ・ラブ・ルーシー(1951年、ルーシー・リカルド)
- ルーシー・デジ・コメディ・アワー(1957年、ルーシー・リカルド)
- ザ・ルーシー・ショー(1962年、ルーシー・カーマイケル)
- 陽気なルーシー(1968年、ルーシー・カーター)
- ストーン・ピロー(1985年、フローレンス・ストーン)
- ライフ・ウィズ・ルーシー(1986年、ルーシー・バーカー)
舞台
- ヘイ・ディドル・ディドル(1936年、ジュリー・タッカー)
- ワイルドキャット(1960年、ワイルディ・ジャクソン)



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