ヌーヴェルヴァーグ(Nouvelle Vague)は、1950年代末から1960年代にかけてフランスで起こった映画運動で、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェットなどの若手監督たちが中心となりました。

フランス語で書くと賢そうだけど英語では「New Wave」(ニューウェーブ)。
この運動は、伝統的なフランス映画のスタジオ中心の制作スタイルを打破し、手持ちカメラによるロケーション撮影、ジャンプカットなどの革新的な技法、そして現実的なテーマを導入したことで知られています。
特に、ヌード表現は、ヌーヴェルヴァーグの作品において重要な役割を果たしました。それは単なるセンセーショナリズムではなく、性的自由、社会批判、ジェンダー役割の探求、身体性の表現として機能していました。
以下では、ヌーヴェルヴァーグのヌード表現の歴史的背景、代表的な作品、表現の意義、そして現代的な解釈について深掘りしていきます。
歴史的背景とヌード表現の文脈
ヌーヴェルヴァーグの監督たちは、戦後フランスの社会変革期に育ち、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で活動を始めました。彼らはハリウッド映画やイタリアン・ネオリアリズモに影響を受けつつ、フランスの伝統的な「質の映画(Cinéma de qualité)」を批判し、よりパーソナルで実験的な映画を目指しました。
ヌード表現はこの文脈で登場します。1950年代のフランスは、戦後の解放感と保守的な道徳の間で揺れていました。ヌードは、従来の映画ではタブー視されていましたが、ヌーヴェルヴァーグ監督たちはこれを解放の象徴として用いました。
例えば、イングマール・ベルイマンの『不良少女モニカ』(1952年)は、ヌーヴェルヴァーグに大きな影響を与え、ハリエット・アンデションのフルヌードシーンが、自由奔放な女性像を象徴しました。この映画は、ヌーヴェルヴァーグの監督たちに、ヌードを物語の核心として活用するインスピレーションを提供したと言えます。
また、ヌーヴェルヴァーグのヌードは、ジェンダー表現と密接に関連しています。多くの作品で女性のヌードが登場しますが、これは監督たちの男性中心的な視点(auteurism)を反映しており、女性をオブジェクトとして描く傾向がありました。
一方で、女性の性的主体性を探求する側面もあり、フェミニズム批評では批判と評価が分かれます。ハリウッドの影響を受けつつ、ヌーヴェルヴァーグはセックスの表現を革新し、1960年代の性的革命に寄与しました。
例えば、ゴダールの作品では、ヌードが商業性と芸術性の対立を象徴的に描くことが多く、単なるエロティシズムを超えたメタファーとして機能します。
さらに、ヌーヴェルヴァーグのヌードは都市空間と結びつきます。パリを舞台にした作品では、街が性的イニシエーションの場として描かれ、ヌードシーンが都市の自由と混沌を表現します。
これにより、ヌードは個人の解放だけでなく、社会的な文脈を反映したものとなりました。
代表的な作品とヌード表現の分析
ヌーヴェルヴァーグの作品では、ヌードが物語のテーマを深めるツールとして用いられます。以下に主な例を挙げて解説します。
ジャン=リュック・ゴダール監督の作品群
ゴダールはヌーヴェルヴァーグの象徴で、ヌードを哲学的・社会批判的に扱います。例えば、『軽蔑』(1963年)では、ブリジット・バルドーのヌードシーンが冒頭に登場し、赤・青・白のフィルターで撮影されます。これはプロデューサーの商業的要請に応じたものですが、ゴダールはこれを芸術的に昇華させ、ヌードを「軽蔑」と「疎外」のメタファーとして用いました。
また、『ピエロ・ル・フー』(1965年)では、アンナ・カリーナのヌードがモンタージュで挿入され、ポップカルチャーと性的参照を融合させます。これらのシーンは、ヌードを脱意味化し、観客の神経を逆撫でする「半勃起状態」として描かれ、性愛より恋愛を重視するヌーヴェルヴァーグの特徴を示します。
後期の『さらば、愛の言葉よ』(2014年)では、フルフロンタルヌードが抽象的に用いられ、人間の本能とコミュニケーションの崩壊を表現します。
フランソワ・トリュフォー監督の作品
トリュフォーは、よりロマンティックなアプローチでヌードを扱います。『ジュールとジム』(1962年)では、ジャンヌ・モローのヌードが三角関係の複雑さを象徴し、女性の性的自由を肯定的に描きます。これは、ヌーヴェルヴァーグの女性像として、伝統的なジェンダー役割からの脱却を表しています。
また、『夜の大捜査線』(1960年)では、ヌードが青春の無常を強調します。トリュフォーのヌードは、感情の裸露と結びつき、心理的な深みを加えます。
ジャック・リヴェット監督の作品
リヴェットの長編『美しき諍い女』(1991年)は、ヌードの極致と言えます。エマニュエル・ベアールのほぼ全編ヌードが、画家とモデルの精神的な戦いを描き、ヌードを芸術のプロセスとして昇華させます。
これは、ヌーヴェルヴァーグのドキュメンタリズム(現実の記録性)と結びつき、ヌードを「裸の状態が自身を表す」ものとして扱います。ヌードシーンはセックスを伴わず、純粋な芸術表現として機能し、ヌーヴェルヴァーグの革新性を示します。
他の監督と影響を受けた作品
クロード・シャブロルの『いとこたち』(1959年)では、ヌードが階級差と性的緊張を表現します。また、ヌーヴェルヴァーグに影響を与えたベルイマンの作品のように、ヌードが女性の主体性を探求します。
松竹ヌーベルバーグ(日本版)では、炎加世子のような女優がヌードモデルを演じ、類似の奔放さを描きます。
さらに、ジャック・ドワイヨンの『ラ・ピラート』(1984年)では、ジェーン・バーキンとマルーシュカ・デトメルスの大胆なヌードがセンセーショナルに描かれ、ヌーヴェルヴァーグの遺産を継承します。
これらの作品では、ヌードがロングショットやワンシーン・ワンカットで強調され、ドキュメンタリズムの影響が見られます。ヌードは、身体の客体化ではなく、個人の内面や社会の鏡として機能します。
ヌード表現の意義と批評
ヌーヴェルヴァーグのヌードは、性的フェティシズム(ヌード、タイツ、足など)と結びつき、シュルレアリスムの影響を受けています。
しかし、女性の表現は男性監督の視点が強く、ミソジニー(女性蔑視)の批判を受けます。フェミニズム批評では、女性がオブジェクト化される一方で、性的主体性を与える側面も指摘されます。
また、ポルノグラフィックな要素(Nouvelle vague porn)として、ポルノ俳優の主体性を強調する現代的解釈もあります。
ヌードは、ヌーヴェルヴァーグの「作家主義」を体現し、監督の個人的ビジョンを反映します。戦後のフランスで、ヌードはタブーからの解放を象徴し、性の表現を革新しました。
今日では、ジェンダー平等の観点から再評価され、ヌードが芸術と商業の狭間で果たした役割が議論されます。
結論と現代的影響
ヌーヴェルヴァーグのヌード表現は、映画史に革新をもたらし、後のインディペンデント映画やポストモダン作品に影響を与えました。例えば、現代のフランス映画では、ヌードがより多様なジェンダー表現として進化しています。深掘りする上で、ヌードは単なる視覚的要素ではなく、自由、批判、身体性の探求として理解すべきです。
興味がある方は、代表作を視聴し、文脈を考慮して鑑賞することをおすすめします。ヌーヴェルヴァーグは今も「いつも新しい」存在です。


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