キム・ノヴァク(Kim Novak)は米国の元女優で画家。アルフレッド・ヒッチコックの「めまい」(1958年)での二重役や『絹の靴下』(1962年)のキス・ミー・ストゥーピッド役で知られ、ゴールデングローブ賞2回、名誉ゴールデンベア賞、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得。
プロフィール
- キム・ノヴァク(Kim Novak)
- 本名:Marilyn Pauline Novak
- 生年月日:1933年2月13日(92歳)
- 出生地:アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
- 国籍:アメリカ合衆国
- 職業:女優
- ジャンル:映画
- 活動期間:1950年代 – 1991年
- 配偶者:リチャード・ジョンソン(1965–1966年)、Dr. Robert Malloy(1976年~)
生い立ち・教育
キム・ノヴァクの本名はマリリン・ポーリン・ノヴァクで、1933年2月13日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで生まれた。両親はチェコ系移民の二世で、父親のジョセフは元教師から鉄道会社の事務員となり、母親のブランシュも元教師。厳格なカトリック家庭で育ち、幼少期から芸術的な才能を示した。ウィリアム・ペン小学校とファラガット高校に通い、高校時代には美術への興味を深めた。ライト・ジュニア・カレッジに進学し、シカゴ美術大学の奨学金二つを獲得したが、最終学期を前に中退した。
カレッジ在学中、冷蔵庫会社のプロモーションモデルとして「ミス・ディープフリーズ」の称号を得て全国を回る仕事に就いた。この経験が彼女の人生を大きく変えた。1954年、ロサンゼルスに立ち寄った際、映画「フレンチ・ライン」のエキストラとして出演し、コロンビア・ピクチャーズの重役ハリー・コーンに才能を見出された。当時19歳の彼女は、モデル業から演技の世界へ自然に移行していった。シカゴでの厳しい教育環境で教師たちと対立しがちだった彼女は、自由な表現を求める性格が早くから現れていた。この生い立ちは、後のキャリアで独自の個性を保つ基盤となった。家族は姉のアルネッタがおり、幼い頃から姉妹で支え合いながら育った。両親の影響で文学や芸術に親しみ、詩作や絵画の趣味を養ったが、経済的な事情からモデル業を選んだ。こうして、伝統的な教育を途中で断ち切り、創造的な道を歩み始めたノヴァクの人生は、常に自己表現の追求に満ちていた。
経歴
1954年、キム・ノヴァクはコロンビア・ピクチャーズと契約を結び、女優としてのキャリアをスタートさせた。デビュー作はフィルム・ノワールの「プッシュオーバー」で、フレッド・マクマレイと共演し、セクシーなイメージを確立した。当初はリタ・ヘイワースの後継者として期待され、スタジオの宣伝戦略で「セックスシンボル」として売り出されたが、彼女自身はステレオタイプを嫌い、独自の演技を追求した。1955年の「ピクニック」ではウィリアム・ホールデンと共演し、ゴールデングローブ賞最優秀新人女優賞を受賞。労働者階級の女性を繊細に演じ、批評家から絶賛された。同年の「黄金の腕の男」ではフランク・シナトラと組み、ドラッグ依存の物語でドラマチックな演技を披露し、ボックスオフィスで成功を収めた。
1950年代後半、ノヴァクはハリウッドのトップスターとなり、3年連続で興行収入女王に輝いた。1956年の「エディ・デューチン・ストーリー」ではタイロン・パワーと恋愛ドラマを演じ、優雅な魅力を発揮。1957年の「パル・ジョーイ」ではシナトラと共演し、ミュージカルで歌とダンスを見せた。キャリアの頂点は1958年のアルフレッド・ヒッチコックの「めまい」で、二重役のマデレーンとジュディを演じ、ジェームズ・スチュアートとの化学反応が映画史に残る名演となった。この作品は彼女の内面的な葛藤を象徴し、批評家から「20世紀最高の演技の一つ」と評された。同年の「ベル、ブック・アンド・キャンドル」では魔女役でコメディを披露し、多才さを証明した。
1960年代に入り、キャリアに変化が生じた。1959年の「夜の真ん中」ではフレッド・マクマレイと再共演し、年齢差のある恋愛を描いた。1960年の「見知らぬ人々」ではカーク・ダグラスと共演。1962年の「悪名高い地主婦」ではジャック・レモンとコメディを演じた。しかし、1964年の「絹の靴下」の失敗やビリー・ワイルダー監督との衝突で、スタジオとの関係が悪化。1965年の「モル・フランダースの冒険」ではコメディに挑戦したが、興行的に振るわず、キャリアの低迷期を迎えた。1966年頃から映画出演を減らし、プライベートを優先した。1968年の「リライア・クレアの伝説」では再び二重役を演じたが、批評は厳しかった。1969年の「大銀行強盗」で一時休止後、1973年のTV映画「サード・ガール・フロム・レフト」で復帰。1970年代には「白いバッファロー」(1977年)や「ジャスト・ア・ジゴロ」(1979年)に出演した。
1980年代、ノヴァクはTVシリーズ「ファルコン・クレスト」(1986-1987年)でキット・マーロー役を演じ、悪役として復活。1980年の「鏡の中の鏡」ではエリザベス・テイラーと共演し、アガサ・クリスティのミステリーを彩った。1990年の「チルドレン」ではベン・キングスレーとドラマを演じ、力強い演技を見せた。しかし、1991年の「オブセッション/愛欲の幻」での監督マイク・フィギスとの対立がトラウマとなり、演技を引退。引退後は画家として活躍し、詩や歌詞も執筆。2012年のTCMクラシック映画祭では「めまい」を紹介し、キャリアを振り返った。2025年にはヴェネツィア映画祭で生涯功労賞ゴールデン・ライオンを受賞。彼女の経歴は、短いピークながら映画史に永遠の足跡を残した。
私生活
キム・ノヴァクの私生活は、華やかなキャリアとは対照的に、静かな幸福を求めたものだった。1950年代中盤、ドミニカ共和国の独裁者息子ラムフィス・トルヒーヨや歌手サミー・デイヴィス・ジュニアとの交際がスキャンダルとなった。特にデイヴィスとの関係は人種差別的な批判を呼び、彼女のキャリアに影を落とした。1959年には監督リチャード・クワインと婚約したが、破局。1965年、俳優リチャード・ジョンソンと結婚したが、1年で離婚。離婚後も友人関係を保ち、互いのキャリアを尊重した。
1974年、オレゴンで馬の獣医ロバート・マロイと出会い、1976年に結婚。この結婚は彼女の人生の転機となった。二人はビッグ・サーの崖の家に移住し、自然に囲まれた生活を始めた。マロイの二人の子供をステップチルドレンとして迎え、家族として絆を深めた。1980年代にオレゴンのサムズ・バレーへ移り、ランチを運営。動物愛護に熱心で、馬や犬を飼い、ノヴァク自身も乗馬を楽しんだ。しかし、2000年に山火事で家屋が全焼し、生涯の貯蓄と自伝原稿を失った。この出来事は彼女をさらに内省的にさせた。2010年に乳がんを診断され、手術と治療で回復。2018年にはPTSDを公表し、精神的な苦しみを語った。2020年、マロイが肺炎で亡くなり、深い喪失感に襲われた。
私生活では、常に芸術が支えとなった。引退後、絵画に没頭し、油彩画の展覧会を開催。詩集や歌詞を書き、キングストン・トリオやハリー・ベラフォンテに提供した。2014年、美容整形の噂に対し、オープンレターで「自然な美を大切に」と反論。ハリウッドのプレッシャーから逃れ、自然と動物に囲まれた生活を選んだ彼女は、91歳の今もオレゴンで穏やかに暮らしている。公の場は稀だが、2023年の90歳誕生日をピクニックで祝い、友人たちに囲まれた。ノヴァクの私生活は、スターの孤独と本物の幸福の追求を体現している。
出演作品
- 1954年:フレンチ・ライン(uncredited)、プッシュオーバー、ファフト
- 1955年:シンバッドの息子(uncredited)、5 Against the House、ピクニック、黄金の腕の男
- 1956年:エディ・デューチン・ストーリー
- 1957年:ジーン・イーグルス、パル・ジョーイ
- 1958年:めまい、ベル、ブック・アンド・キャンドル
- 1959年:夜の真ん中
- 1960年:見知らぬ人々、ペペ(カメオ)
- 1962年:悪名高い地主婦、ボーイズ・ナイト・アウト
- 1964年:絹の靴下、キス・ミー・ストゥーピッド
- 1965年:モル・フランダースの冒険
- 1968年:リライア・クレアの伝説
- 1969年:大銀行強盗
- 1973年:Tales That Witness Madness、サード・ガール・フロム・レフト(TV)
- 1975年:サタンの三角(TV)
- 1977年:白いバッファロー
- 1979年:ジャスト・ア・ジゴロ
- 1980年:鏡の中の鏡
- 1983年:マリブ(TV)
- 1986-1987年:ファルコン・クレスト(TV番組)
- 1990年:チルドレン
- 1991年:オブセッション/愛欲の幻
レビュー 作品の感想や女優への思い