ナディア・カッシーニ(Nadia Cassini)は、1949年1月2日、アメリカ・ニューヨーク州ウッドストック生まれの女優、歌手、ショーガール。1970年代から1980年代初頭にかけて、イタリアのエクスプロイテーション映画、特にコメディ・セクシー・アル・イタリアーナのジャンルで人気を博しました。両親がダンサー・俳優であった影響で早くから芸能界に触れ、1969年にイゴール・カッシーニと結婚しイタリアへ移住。離婚後、ギリシャ人俳優ヨルゴ・ヴォヤギスとの間に娘カサンドラをもうけ、キャリアを継続。1980年代にはテレビのバラエティ番組で活躍しましたが、整形手術の失敗により顔面に障害を負い、引退。2025年3月18日、76歳でイタリア・レッジョ・カラブリアにて死去しました。
プロフィール
- 名前:ナディア・カッシーニ(Nadia Cassini)
- 出生名:Born:Gianna Lou Müller
- 生年月日:1949年1月2日
- 出生地:アメリカ合衆国ニューヨーク州ウッドストック
- 死亡年月日:2025年3月18日(76歳)
- 死没地:イタリア共和国レッジョ・カラブリア
- 職業:女優、歌手、ダンサー、ストリッパー
- 配偶者:Igor Cassini(1969年結婚、1972年離婚)
- パートナー:Yorgo Voyagis
- 子供:1人
生い立ち・教育
ナディア・カッシーニは、1949年1月2日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ウッドストックで生まれました。本名はジャンナ・ルー・ミュラーで、父親のハリソン・ミュラー・シニア(1929-1998)はドイツ系アメリカ人、母親のパトリシア・ミュラー(旧姓ノト)はイタリア系アメリカ人でした。両親はプロのダンサー兼俳優として活動しており、娘の誕生当時、舞台公演のツアー中でウッドストックに滞在していました。この芸術的な環境が、幼い頃のナディアに大きな影響を与えました。
家族の職業柄、ナディアは幼少期からエンターテイメントの世界に親しみました。しかし、家庭環境は安定せず、彼女は早くから自立を強いられることになります。10代の頃には家族を離れ、海外へ旅立ち、ストリッパーとして働きました。この時期の経験は、後の大胆な女優業の基盤を築いたと言えるでしょう。彼女の人生は、両親の影響を受けつつも、独自の道を切り開く冒険的なものでした。
教育については、詳細な記録は限られていますが、ニューヨークの芸術的なコミュニティで育った彼女は、マンハッタンのファッション工科大学(FIT)に通いました。そこでパフォーマンスやスタイルの基礎を学び、芸能界への準備を整えました。FITでの学びは、彼女のファッションセンスや舞台表現力を高め、後のイタリア映画での魅力的なキャラクター造形に役立ちました。正式な演劇教育は受けていないものの、実践的な経験を通じて才能を磨きました。こうした生い立ちは、ナディアのキャリアを支える強い精神力を養いました。
経歴

ナディア・カッシーニのキャリアは、1960年代後半に始まります。1969年、20歳の時にアメリカのジャーナリスト、イゴール・カッシーニと結婚し、彼の姓を芸名として採用しました。イゴールはロシア系イタリア貴族の出自で、ファッションデザイナーのオレグ・カッシーニの弟でした。夫の仕事でイタリアに移住したことが、彼女の女優人生の転機となりました。イタリア到着後、すぐにエンターテイメント界に足を踏み入れ、1970年に映画デビューを果たします。
初の映画出演は、1970年の『The Divorce(離婚)』で小さな役を演じました。同年、ピエロ・ヴィヴァレッリの『Il dio serpente(蛇の神)』で初主演を飾り、注目を集めます。この作品はエクスプロイテーション映画の典型で、ナディアの魅力的な容姿が評価されました。1972年、夫婦は離婚しますが、ナディアはイタリアに残り、キャリアを継続。離婚直後、マイク・ホッジ監督の『Pulp(パルプ)』にマイケル・ケインと共演し、国際的な経験を積みました。
1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ナディアはイタリアの「コメディ・セクシー・アル・イタリアーナ」ジャンルでスターとなりました。このジャンルは、ユーモアとエロティシズムを融合させた低予算映画で、彼女はセックスシンボルとして人気を博しました。代表作には、『L’infermiera nella residenza del colonnello(軍病院の看護婦)』(1979年)や『La dottoressa è fuori per i fatti suoi(医者と情事)』(1978年)などがあり、コミカルで魅力的な役柄を次々と演じました。また、SF映画『Starcrash(スタークラッシュ)』(1978年)では、プリンセス・リラ役を務め、国際的な視野を広げました。
1980年代に入ると、映画界の変化に伴い、ナディアはテレビへシフト。シルヴィオ・ベルルスコーニのMediasetネットワークのバラエティ番組『Drive In』や『Premiatissima』でショーガールとして活躍しました。これらの番組は、当時のイタリアで大ヒットし、彼女の人気を維持しました。しかし、1980年代中盤、整形手術の失敗により顔面が部分的に損傷し、右耳を失う重い後遺症を負いました。この出来事はキャリアに打撃を与え、徐々に引退の道を選びます。
イタリアを離れた後、フランスのテレビで仕事を行い、最終的にアメリカへ帰国。歌手としても活動し、数枚のシングルをリリースしましたが、主な成功は女優業でした。ナディアの経歴は、冒険的で波乱に満ち、異なる国での活躍が彼女の多才さを示しています。2025年3月18日、76歳で長年の病気の末に逝去するまで、彼女の遺産はイタリア映画史に残りました。
私生活
ナディア・カッシーニの私生活は、キャリア同様にドラマチックでした。1969年、20歳の時にイゴール・カッシーニと結婚します。彼は著名なジャーナリストで、結婚によりナディアはイタリア貴族の称号「コンテッサ」を得ました。しかし、3年後の1972年に離婚。離婚後、彼女はロンドンへ移り、ギリシャ人俳優ヨルゴ・ヴォヤギスと恋に落ちます。この関係は長く続き、1977年に娘のカサンドラ・ヴォヤギスを出産。カサンドラも女優として活躍し、母親の死をソーシャルメディアで発表しました。
私生活では、娘の存在がナディアの支えとなりました。1978年、娘誕生の翌年に映画復帰を果たすなど、母親業と仕事の両立を図りました。両親との関係は複雑で、幼少期の離別がトラウマとなりましたが、家族の芸能背景が彼女の道を照らしました。整形手術の失敗は、私生活に深刻な影を落としました。顔面の損傷により精神的苦痛を味わい、公の場から遠ざかりました。この出来事は、彼女の内面的な強さを試す試練でした。
晩年はイタリアのレッジョ・カラブリアで静かに過ごし、長年の病と闘いました。プライベートでは、旅行好きで多文化的な生活を送りましたが、詳細は公にされていません。ナディアの私生活は、愛と喪失の物語で、娘との絆が最も温かな部分でした。
出演作品
- 1970年:The Divorce(離婚) – 小役
- 1970年:Il dio serpente(蛇の神) – 主演
- 1972年:Pulp(パルプ) – マイケル・ケイン共演
- 1971年:Quando gli uomini armarono la clava e… con le donne fecero din-don(原始の男と女) – リストラ役
- 1978年:Starcrash(スタークラッシュ) – プリンセス・リラ役
- 1978年:La dottoressa è fuori per i fatti suoi(医者と情事) – 主演
- 1979年:L’infermiera nella residenza del colonnello(軍病院の看護婦) – 主演
- 1979年:L’assistente sociale tutta pepe e tutta sale(スパイシーな社会福祉士) – 主演
- 1980年:La pitoniera(ピトンガール) – 主演
- 1981年:Miracoloni(ミラクローニ) – 主演
- 1981年:Occhio, malocchio e… pennello(オッキオ、マロッキオ) – 役名不明
- 1982年:Giovani, belle… probabilmente ricche(若く、美しく、きっと金持ち) – リタ役
- 1980年代:Drive In(TV番組) – ショーガール
- 1980年代:Premiatissima(TV番組) – ショーガール
その他、フランスTV出演、歌手シングル・リリースなど。
ナディアの出演作品は、主にイタリアのエクスプロイテーション映画を中心に、約20本以上の映画とテレビ番組に及びます。これらの作品で、彼女はコミカルでセクシーな役柄を巧みに演じ、ジャンルのアイコンとなりました。SFやコメディの多様な役を通じて、国際的なファンを獲得しました。
レビュー 作品の感想や女優への思い